なぜ考「現」学なのか

今和次郎

川添登さんの今和次郎―その考現学*1ちくま学芸文庫)を読み終えた。あのリブロポートの「民間日本学者」シリーズ中の一冊として刊行された元版の文庫化であり、文庫化にあたり元版刊行後に発表された著者の考現学に関する論考三篇を補論として新たに収録している。
本書を読んで浮かんだ最大の疑問は次のようなことだ。過去の遺物遺跡を対象とする考古学を意識して現代風俗を研究する学問として打ち上げられた考現学は、なぜ「現」なのか。古今東西という言葉からすれば、考「今」学とするのが自然なはず。これについて今和次郎はこうコメントしている。

古に対しては今でなければならぬとの注意を受けているから、そうすると考今学といわなければならぬだろうが、それはどっちでもいいことにしておきたい。(175頁)
そもそもこの箇所を読んだときに上述の疑問が浮かんだ。上に引用した今の説明は説明になっていない。単純に考えれば、今和次郎が創始した学問に自ら考今学と名づけては、いかにも我田引水のように受けとめられることを恐れ、また恥ずかしがって、あえて「現」の語をもってきたのではないか、ということ。
一見くだらぬ疑問に思えるが、川添さん自身文庫版に寄せたあとがきのタイトルを「考今学―文庫版あとがきにかえて」と称しており、問題とするに足る疑問であることは間違いない。実際考現学誕生のさい考今学という名称も候補にあったらしく、考今学とするのを今が恥ずかしがったという説もあるようなのだ(405頁)。もっともいまではすっかり考現学が馴染んでおり、考今学よりも言葉の響きはいい。
まあそんなことはどうでもいい。川添さんによれば考現学の特長は「ある場所と時間とを限定し、ある一定の項目のモノやコトが、どれだけあるのか、その総べてを調べあげること」(202頁)と定義される。言うことは簡単だが、実行には困難がともなう。そもそも一定の時間・空間のなかで存在する「モノ」「コト」をいかに分類するのか、ほとんど無限に存在するはずの「モノ」「コト」の情報処理術を想像し呆然となる。
とはいえ、今らが学問を立ちあげた昭和初年の時期は、現代の「モノ」「コト」の多様性にくらべれば、まだ社会的階層と衣服・行動などの表象は相即していたようだ。たとえば『新版大東京案内』から転載された「盛り場の人出分析表」には、職種(階層)別に人数がまとめられている(268-9頁)。項目をあげれば、男性の場合、店員・労働者・地方人・子供・学生・青年・中年・老人となる。現代の感覚からすれば、子供や老人はともかく、店員・労働者などは見分けがつくのだろうか。いや、当時は見分けがついたのに違いない。浅草や上野でまま見られる「地方人」も、一見して都会人と区別できるから項目立てされたのだろう*2。現代ではおよそ分類不可能な指標だろう。
いまひとつ不思議なのは、おでん屋のこと。銀座の飲食店数を業種別に調べた一覧表が補論1に転載されている。昭和4年・6年2年分の数値があるが、おでん屋は11軒から67軒とこの間実に6倍もの増加を示しているのだ。この2年に挟まれた昭和5年(1930)は世界大恐慌の年であり、川添さんは「かなり異常」であると述べられたにすぎないが、不況はおでん屋を生むという法則があるのだろうか。もっとも早稲田と新宿での同じ昭和6年の調査では、それぞれおでん屋は4軒と21軒で少ない。地域的特色というものを考えなければならないだろうが、それにしても銀座におけるおでん屋の激増は不思議な現象である。
今和次郎編纂の『新版大東京案内(上)』*3ちくま学芸文庫)を繰ってみても、おでん屋については、
江戸以来のおでんやでは四谷の「丸梅」神田の「まるぎん」などがあるが、どこでも今では小料理を兼ねて、銀座の「加六」や「岡田」、日本橋の「赤あんどん」など名だけでも高い。(337頁)
とあるだけで、なぜ流行るのかについての考察はない。今後この時期の文献を読むときの課題として心に留めておきたい。

*1:ISBN:4480088601

*2:人形町・新宿・銀座・道玄坂に「地方人」は見えない。

*3:ISBN:4480086714