第80 『ちんちん電車』を歩く

浅野邸跡地

獅子文六『ちんちん電車』*1河出文庫)を読んで、獅子文六伊東忠太の設計した建物が好きでなかったらしいと書いた(→4/14条)。とりわけ札の辻にあった浅野総一郎邸に対する批評は厳しいものがあった。
先日引用した部分に続いて、この浅野邸にまつわる面白いエピソードが書かれている。浅野邸の南寄りに「小さな西洋洗濯屋」クリーニング屋のことか)があり、むさ苦しい洗濯物を干すのが目障りとばかり、浅野側で土地を買収しようとしたものの、洗濯屋のオヤジが頑として首を縦に振らず居座った結果、浅野邸はその部分を避けて塀を作ったため、敷地がそこだけ凹んだようになったばかりか、豪壮な邸宅の前に高々と「ムサ苦しきものが翻ってる」ので、それ見たさにわざわざ電車に乗って見物にくる者もあったという。
獅子文六が『ちんちん電車』を『週刊朝日』に連載したおり、あらためてかつて愛乗した路線に乗って取材したわけだが、そのときすでに浅野邸は存在していなかった。しかしながら獅子は、かろうじて残った浅野邸の遺構を発見して、『ちんちん電車』のなかに書きとめている。上に書いた洗濯屋の挿話に続けてこうある。

しかし、それからもう半世紀たち、総一郎翁も、その嗣子さえも、この世の人でなく、浅野邸跡は中学校とマンションに化した。ただ、どういうものか、札の辻寄りの方に、少しばかり、昔の塀の一部が、残されてるのである。私はそのコンクリートに見覚えがあるから、それと判別するものの、ありし日の栄華の跡と気づく者は、ほとんどあるまい。(49頁)
このくだりに、散歩者としての興味をいたくそそられてしまった。『ちんちん電車』が刊行されて40年たつが、ひょっとしたら、いまなお浅野邸のコンクリート塀は残されているかもしれない、と。湯島切通坂に旧岩崎邸の煉瓦塀が痕跡をとどめているくらいだから、浅野邸のコンクリート塀だって、取り壊されていないともかぎらない。
フィルムセンターで映画を観たあとは、たいてい銀座線の京橋駅から帰途につくのだが、そんな事情で昨日はそれと逆方向にある都営浅草線宝町駅に入り、泉岳寺を目ざした。当該のくだりは、泉岳寺から三田のほうに都電を乗り継ぎながら歩いたルポのなかに記されているので、わたしも泉岳寺で降りて三田まで歩き、札の辻辺を探索してみようと試みたのである。
結論から先に言えば、40年前に獅子文六が見つけた浅野邸の痕跡を札の辻辺で見つけることはできなかった。ついでに言えば、「西洋洗濯屋」もそこにはなかった。手がかりは「中学校とマンション」だが、中学校はおそらく当該地にいまもある港区立三田中学校がそれだろう。三田中学校の南側(泉岳寺方向)には、巨大な高層マンション*2が建築中で、建設現場を覗いてみると、奥に高台が見えるから、浅野邸はこのマンション敷地と中学校敷地に、高台から東(海)を望むかたちで構えられていたのだろう。あるいはこのマンション建設以前に訪れれば、コンクリート塀を発見できたかもしれないし、マンション建築現場から浅野邸の遺物が発掘されているのかもしれない(それはないか)。
冒頭の写真は、札の辻交差点上にある歩道橋の上から、建築中の高層マンションと三田中学校の間からわずかにのぞく高台への崖を撮したものである。
近代の個性あふれる起業家・成金の小評伝集である内橋克人『破天荒企業人列伝』*3新潮文庫、のち現代教養文庫内橋克人クロニクル・ノンフィクション3 日本資本主義の群像』*4として再刊)のなかに浅野総一郎が取り上げられており、そのなかに浅野邸がこのように描写されている。
彼が築いた大邸宅は、昭和二十年(一九四五)年五月二十四日の東京大空襲で焼け失せるまで、東京・三田の小高い丘の上に、天下を睥睨するようにそびえていた。その建物はまるで平安時代の神社仏閣と内裏をミックスしたような時代離れしたもので、そのころ省線電車の田町―品川間(東京・港区)の車窓から、全景を仰望することができたものである。建物の一部は〝四重の塔〟スタイルで、その屋根の上には金の鯱が傲然と輝いていた。(新潮文庫版85頁、現代教養文庫版69頁)
浅野邸は「紫雲閣」と呼ばれ、建材も一級のものを使用し、内装調度も贅を尽くしたものだったという。また邸宅の外には十軒ばかりの妾宅が軒を連ね、さながら城下町のごとくであったというから、庶民の反感を買うのも当然という気がする。
山手線・京浜東北線などが走る線路と旧浅野邸の間に第一京浜が走り、その両側に林立する高層ビルによって視界が遮られているため、電車からも邸宅跡附近を見ることはできないだろうし、また邸宅があったあたりから東の海を見渡すことも、難しいに違いない。そもそも海岸はずっと遠ざかってしまったのである。今回は心残りの散歩だった。

*1:ISBN:4309407897

*2:住友不動産が計画する高級賃貸マンション「ラ・トゥール三田」だそうだ。こういう物件には一生縁がないだろうなあ。→http://www.latour-r.com/mita/index.html

*3:ISBN:4101300011

*4:ISBN:4390114239