中年男は誰に反論するのか

新・中年授業

目黒考二さんの新著『新・中年授業』*1本の雑誌社)を読み終えた。
書名に「新」とある理由は、最初の一章「年下男のほうがいいのか?」に書かれてある。もともと『中年授業』と題した著書の続篇という意味合いがあるとのこと。『中年授業』は文庫に入るさい『活字学級』と改題されたものの、「中年授業」というタイトルに愛着があって、ふたたび使用したという。
『活字学級』*2(角川文庫)であればおぼえがある。おぼえがあるどころか、この本を読んだことがきっかけで、その後目黒=北上次郎さんの読書エッセイを愛読するようになったのではなかっただろうか(→2003/7/14条)。
『活字学級』の感想にも書いたように、息子を持つ父親の心境を、読書を通して重ね合わせてゆく目黒さんの文章にいたく共感したのであった。その後目黒さんの本を愛読するようになり、二人目の息子が生まれた。目黒さんとわたしは、子供が息子二人というのも同じなうえに、二人の年齢差もたしか同じで、父親となった年齢も似たようなものだったような気がする。『活字学級』は四十代半ばに書かれたものだから、結果的にそこには、近い将来わたしが抱くことになるかもしれない心境が先取りして語られていることになるのである。
さて『新・中年授業』となって、語り口はどう変化しているだろう。前の本から約十年を経て書かれたこの本、目黒さんは五十代も後半にさしかかり、息子さんたちは社会人や大学生になっている。
主としてエンタテインメント小説が俎上に載せられているが、そのほとんどはメインのストーリーと関係ない部分で目黒考二という中年男の気持ちとクロスする。小説の本筋に関わる書評は別の場でなされているのに違いないので、本書ではそうした書評的性質は皆無とは言えないまでもすこぶる稀薄である。中年男の気持ちを表現するにあたり、最低限説明が必要なストーリーは語られるものの、本筋は「この際どうでもいい」(本書の常套句)。
たとえ「ネタばらし」のレベルまでストーリーが明かされていても、本書で取り上げられているような小説は私の嗜好とあまり接点がないため、安心して(?)読むことができるのが嬉しい。「以下ネタばれ注意」と書かれてあっても、そこで立ち止まる必要がないのである。
本書を通読して思ったのは、息子さんたちが自立した道を歩みつつあるゆえか、もはや『活字学級』のように息子をもつ父親の心境という点でひっかかることが少なくなってきているということだ。小説の登場人物やエピソードに引き寄せて息子たちの先行きを案じるような感傷は薄れつつある。
そのいっぽうで強く前面に出てくるのが五十代半ばという「中年男」の気持ちである。読んだ小説のなかで、自分と同年配の中年男が味わう人間関係、異性関係などに対し、極度に感情移入したうえで鋭く反応する。物語のなかの登場人物(多くは脇役)に同化し、彼になりかわって相手を攻撃する。
たとえば藤堂志津子『男の始末』を取り上げた「美男美女でも幸せにならない」のなかで、男運の悪い五十歳の女性美衣子が、子供の頃「賭けごとをする男には、大人になっても、ぜったいに近づいちゃだめだ」と母から厳しく言われたことに反応して、「これは極端すぎないか。賭け事をする人間にまつわるそういうイメージの流布は、画一的な人間分類法ではないのかと、言いたい」と反論する。

もし美衣子が、賭け事をやる男と一緒になっていれば、それも適度に賭け事をして、たまに勝ったら妻とその喜びをわかちあい(ホントか)、けっして仕事も生活もしくじらない男と一緒になっていれば、働きもせず、女の尻を追いかけるだけの見かけのいい男と一緒になるよりも、あるいは幸せになっていたかもしれない。そうではないと誰にも言い切れない。賭け事をやる人間を、ただそれだけのことで、最初から排除しないでいただきたいと切に思うのである。(179頁)
競馬(賭け事)大好きの目黒さんが「最初から排除しないでいただきたい」と切に訴えている相手は、作者の藤堂さんではあるまい。作中人物である美衣子(およびその母)なのである。
小説の筋は筋として楽しむいっぽうで、中年男の心の琴線に触れた部分についても、まるで自分がその立場に置かれているかのように真面目に反論し、またわが身を省みて身過ぎ世過ぎに思いを馳せる。こんな小説の愉しみ方ができる目黒さんを本読みとして心底羨んでしまう。