体感的東京本渡り歩き

私のなかの東京

昨日触れた海野弘『モダン都市東京―日本の一九二〇年代』*1(中公文庫)の上司小剣『東京』に論及した第6章のなかに、こんなくだりがあった。

さらに注目すべきなのは、この小説の中で都市論を展開する部分があることである。第三部「争闘篇」では、都市と田園との対立が意識され、あまりに人工的な都市への懲罰としての大震災が予感されているのである。主人公の春田は、恋人の浜江をチブスで失う。浜江の父は文学士で、海野三郎という、私の親戚のような名である。(149頁)
「海野三郎」! なんと素敵な名前だろう。というのは、本文庫版の解説が川本三郎さんで(旧版からそのまま)、海野弘川本三郎を合体させた名前なんて、最強の都市東京論者ではないかと、本の内容とはまったく関係ない感動をおぼえてしまったのだった。
川本さんと言えば、これまた最近再文庫化された野口冨士男『私のなかの東京―わが文学散策』*2岩波現代文庫)の解説も書いておられる。野口さんの名著『私のなかの東京』であれば、こちらはまだ一度読んだ記憶が確実に残っている。たしかこの本も『モダン都市東京』同様体感的だったはずだ。川本つながりで再読してみる。
記録によれば、本書を読んだのは約6年前だ(→旧読前読後2001/8/23条)。もう6年も経つとは驚きである。たしかようやく単行本を古本で入手し、それで読んだはずで、その後中公文庫版を手に入れた。さて、そのときの感想を読み直してみると、わたしの印象は野口さんの記憶力のよさに収斂していたようである。
今回の再読では、「体感的」というキーワードでつながってきたゆえか、主として本書のそうした叙述が印象に残ったようである。
三田のほうから飯倉二丁目へのぼる坂は土器坂で、電車は坂上に近づくとスピードが落ちるために、私たちは次つぎに飛び降りして、降りそこなった者は一丁目から坂をのぼってきたが、その飛び降りを私たちはタムラマロといっていた。坂上田村麻呂をもじったわけである。(24頁)
特に大晦日の夜は西側の舗道にも夜店が出、道幅は平常の半分ちかくになったから、現在でいえばお酉さまの賑わいにほぼひとしい人波にもまれながら、友人たちと夕方から明け方ちかくまで夜を徹して、何度でも表通りを往復した。そして、空腹をおぼえると裏通りで腹ごしらえをしてから、また表通りへともどって歩きつづけた。浅草の観音さまとか、川崎の大師とか、成田山への初詣というような慣習はその当時もあったものの、それは私たちのような銀ブラ族とは縁遠いものであった。銀ブラ族だから、ひたすら銀座を歩く。そういう節操のようなものが、当時の私たちにはあった。(41頁)
別の言葉でいえば、昭和十年代初頭の浅草には永井荷風の時代があって、その直後に高見順の時代がつづいたということになるのだが、一つの街が一人の作家を中心にたぎり立つというような現象は、銀座はおろか、新宿や、渋谷や、池袋にもあり得ないだろう。そんなところに浅草の、特に芸能界に生きる人びとのてんでんばらばらではない、連帯意識がみられる。(114頁)
拙著『わが荷風』の一節だが、現実の玉の井荷風が書いたようなものではなかった。(…)まだ水洗などのない時代であったために、便所の汲み取り口をあふれ出た汚水が道に流れて表面が白濁している有様など、目もあてられなかった。私が一度朝帰りをして、ああもうこんなところへ来るものではないとおもったことは事実だが、それではもう行かなかったかと言えばそうでもなかったところに、私の青春も人間性もあったのだろう。(133頁)
引用ばかりがつづいたが、再読でのわたしは、こうした“時代の生き証人”的な、もうほとんど口碑の域に達していると言ってよいような数々の発言に強く惹かれたのであった。いつの日か三読することがあるのなら、また違った箇所に感銘をおぼえるのに違いない。再読はしてみるものである。