山口瞳表から裏から

瞳さんと

いま現在の読書の流れは、大きく分ければ、昨日一昨日と連続で触れた“体感的東京本”と、『『洋酒天国』とその時代』*1筑摩書房、→6/28条)を水源とした“山口瞳本”の二つになっている。
昨日、とある寄合に出るため青森市に日帰りで行ってきた。わたしは海外旅行はもとより北海道にも行ったことがなく、北限は弘前だったので、昨日の青森が生涯最北の旅行地となった。東北人ではあるが、これでようやく東北六県の県庁所在地をすべて訪れたことにもなる。
飛行機で寄合に出席して日帰りするという慌ただしい日程だったため、観光めいたことは何一つできなかった。とはいえ青森で何を見るべきなのか、わからない。三内丸山遺跡という目玉はあろうが、わたしはあまり興味がない。青森と言えば寺山修司が一時住んでいた町(寺山は青森高校出身)という印象なのだ。
駅から目と鼻の先の港のほうに歩いて、かすかに海の匂いを嗅ぐことができたことと、わたしの育った山形市秋田市盛岡市のように、旧城下町で現在県庁所在地という町とは異なる雰囲気、でも懐かしさのただよう地方都市の風情を味わったこと、わずか数時間の滞在ではあったが、それが初めての青森の印象だった。
ところでこの飛行機往復に、ちょうど読んでいた山口治子さんの『瞳さんと』*2小学館)だけではもの足りず、いずれ読もうと思っていた山口瞳さんの単行本未収録短篇集『父の晩年』*3河出書房新社)も携えた。
飛行機に乗っているのは片道せいぜい一時間足らず、自宅から羽田まではシャトルバスなので、2冊も読めっこないのに、1冊だけでは寂しかったのである。ただ、青森空港で帰りの飛行機を待っている間、一心不乱に『瞳さんと』を読んでいたため、わたしにとって青森空港の記憶は山口瞳という名前と分かちがたいものになるに違いない。
『瞳さんと』は奥様である治子さんによる待望の本だ(中島茂信さんによる聞き書き)。一人息子である山口正介さんの『ぼくの父はこうして死んだ』*4(新潮社)と合わせ、山口瞳を語るうえでの必携書がこうして揃った。
『男性自身』をはじめとした山口作品でよく知られたエピソードもあるけれど、それが治子さんというもういっぽうの当事者の側から語られるとまた新鮮である。「語られざるエピソード」もあったりして、やっぱりこの本を読んでいたら山口さんの文章に触れたくなった。
山口さんは、いつも心の隅に置いておきたいような、座右の銘にしたいような、たまらなく素敵なことを言うのである。本書のなかでもっとも印象に残った山口瞳発言だ。

「一週間をなんとなくすごす人もいるけれど、一週間のうちに全力投球できる場を持っていることを幸せとしなければなりません。僕にとって、『男性自身』は大河小説なんです」(9頁)
治子さんは観察力がすぐれた人で、また、山口さんと親しい人びとは治子さんの前では素顔を見せることもあったようだ。治子さんはそうした姿を見逃さない。吉行淳之介が麻雀をしに山口邸を訪れたときの一齣。
私がお茶か何かを持って行ったとき、吉行さんは私の頭から足の先までじっと見たかと思うと、すぐに視線を麻雀の牌に戻しました。
(あ、吉行さんって、私に興味がないんだな)
というのがわかり、私は吉行さんと会ってもほとんど緊張しなくなりました。(237頁)
治子さんが大ファンだったという池波正太郎と銀座で偶然会ったときの様子。
「先生、いつもお便りをいただきありがとうございます」
「あ、あ、じゃあまた……」
池波さんはとてもシャイな方で、挨拶もそこそこにすぐにその場を立ち去られてしまいました。(242頁)
山口瞳が追悼文の名手であることは知られた話だが、本人もそれを自覚していたことまでは知らなかった。「自分が死んだときも追悼文を書ければいいのにあ」(238頁)と笑い話をしていたというのだ。
今年は山口瞳さんの十三回忌の年に当たる。没した直後に書かれた正介さんの本を読んで胸が熱くなったのに対し、治子さんによる本書はそれだけの時間が経ったゆえか、夫山口瞳を一人の人間、一人の作家として、戦前戦中戦後の時間の流れのなかに置き、むろんご自身との関わりという視点も欠かさずに描く。一番の身内で、もっとも山口瞳という人間がこの世にいないことを痛切に感じている人であるにもかかわらず、いやそれゆえにか、このように見事な人物論として語り尽くされていることは、ファンとしてとてもありがたい気がする。
『瞳さんと』を読んだ直後につづけて『父の晩年』を読むと、前者で語られていた挿話がそのまま小説に取り入れられているので、小説を読んでいる気がまるでしなかった。もとより山口瞳という小説家の小説作法はこうした私小説的な手法を取るのだろうし、それが当たり前なのだが、『瞳さんと』と併読したことで感銘が深まった。
さらに未読の『男性自身』へとこの読書の流れはつづいていきそうである。