再読なのか初読なのか

モダン都市東京

本置き部屋にある書棚の、立ったときに目の高さにある段には、読みたいと思って忘れないようにしている本を並べてある。そのなかに、海野弘さんの名著『モダン都市東京―日本の一九二〇年代』*1(中公文庫)があった。学生時代に一度読んだはずで、東京に住んで以来再読しようと期していたのだ。
おぼろげな記憶によれば、乱歩マニアだった頃乱歩作品を論じていた同書を買い求めて読み、一度手放してしまってから、東京で(すなわちここ10年の間に)買い直したように憶えている。だからいま書棚にあるのは買い直したものであるはずだ。
あらためて当時の記録を見直してみると、いまから17年前の1990年5月13日、バイト先の古本屋で『モダン都市東京』と、同じく中公文庫に入っている横関英一『江戸の坂東京の坂』を買ったとある。余談だが、この日のバイト帰りには、仙台駅前デパートの地下にあった八重洲書房で出口裕弘さんの『ペンギンが喧嘩した日』も購入している。
ところが記録を検索しても『モダン都市東京』はここにしか登場しない。読んだことすら記録にない。ちょうどこの頃平凡社からシリーズ『モダン都市文学』が刊行中で、これを毎回購っていた。『モダン都市東京』を購ったのはひょっとしたらこのシリーズの影響なのか。
こうなるとそもそも読んでいるのかどうかすらあやしくなってきた。中公文庫から新装改版*2が出たのをきっかけに、最初から「読み直」すことにした。旧版も新版も装幀は同じ菊地信義さんだが、がらりと雰囲気が変わっている。
モダン都市東京―日本の一九二〇年代 (中公文庫)読んでみて驚いたのは、日本の1920年代の社会潮流を、その時代に書かれた文学作品を通じて論じようとする海野さんは、本書が書かれた80年代の東京を実際に歩きながら、20年代の東京の姿を見つめようとしていたことだった。つまり“体感的”であること。むろんいまであれば、散歩する行動派としての海野さんの著作活動を知っているから、何の違和感もないわけだけれど、てっきり書斎派的な姿勢で東京を論じた本だとばかり思い込んでいた。
これが実際に読んでそう感じていたのが、17年という時間の作用で記憶が変形されたのか、買って拾い読みしただけで通読した気になり、本書を誤解していたのか、まったくわからない。後者だったとしたら空恐ろしくなる。17年経って、これだけの東京論の名著をいままで読んでいなかったというアリバイを慌ててこしらえたことになるのか。
「あとがき」のなかで、本書の意図が次のように述べられている。

面白く読むためには、当時の文学を過去のものとして文学史的に読むのではなく、その時代の中で、現在として読んでいかなければならない。私はできるだけその時代の空間を浮かびあがらせたいと思った。この本は、日本の一九二〇年代論であると同時に、東京という都市空間論でもあるという欲張りな抗争を持っている。東京を歩きまわりながら、そこに残されている一九二〇年代を発掘していこうというのである。
わたしが“体感的”と感じたのは、この意図と直接的に関係する。
かりに通読していないとしても、少なくとも部分的に拾い読みしたはずの乱歩に触れた一章(第9章「江戸川乱歩『D坂の殺人事件』」)でも、驚かされる一節があった。『D坂の殺人事件』に描かれる犯人と被害者の関係について、「単なる愛情だけではなく、性的趣味の一致だと解釈されるなら、男と女の関係の新しい水準を示すものといえるだろう」としたうえで、次のように続けている。
夫婦という関係がゆらぎはじめているのだ。そして被害者として殺されたとはいえ、古本屋の女房は、自らの性的趣味に殉じたことにおいて、新しい女であったといえるのではないだろうか。(240頁)
「D坂の殺人事件」において、語り手や探偵役たる明智小五郎を取り上げて都市遊民であることを指摘する紋切り型を超越して、ほとんど言及されることがない(あまりわたしは目にしたことがない)殺された被害者の女性を20年代の都市東京における人間関係の変化のなかに位置づけようとするなんて、鋭すぎる。
もうここまでくると、初読なのか再読なのかなどどうでもよくなって、海野さんと一緒に東京を歩き、20年代の都市空間を彷彿とさせられたことに満足をおぼえたのである。