ウィスキーが飲みたくなり…

『洋酒天国』とその時代

小玉武さんの新著『『洋酒天国』とその時代』*1筑摩書房)を読み終えた。
小玉さんは1962年にサントリー(当時寿屋)に入社、宣伝部に配属され、開高健山口瞳らの下で『洋酒天国』編集にも携わった。その後文化事業部長などを歴任し、『サントリークォータリー』創刊時から14年間編集長の職にあったという。そんな『洋酒天国』のことを知悉する著者のことだから、本書は最初から最後まで一貫して読み応えがある『洋酒天国』実話だった。
もちろん『洋酒天国』の編集に携わった人、寄稿した人びとの顔ぶれが多士済々であるからでもある。編集側では、開高健山口瞳柳原良平・坂根進らがいる。開高・山口・柳原三者にはそれぞれ一章が割かれ、彼らと『洋酒天国』との関わりについて、著者の実体験をもとに述べられている。
寄稿者側で一章割かれているのは、植草甚一・薩摩治郎八・埴谷雄高山本周五郎の四人。植草・埴谷・山本の三人はともかく、獅子文六『但馬太郎治伝』や、藤田嗣治のパリにおけるパトロンとして知っている伝説の人薩摩治郎八が、『洋酒天国』の常連執筆者だったなんて、急に薩摩治郎八という人物が身近になった気がする。
サントリーと言えば、サントリーホールサントリー美術館といった文化事業にも熱心な企業である。サントリーホールサントリー美術館なんて、名前にきちんと織り込まれているにもかかわらず、あまりに目や耳に馴染みすぎて、その経営主体がお酒を造るサントリーであるという意識が消えかかっていた。
こうした文化事業を熱心に推進した佐治敬三や、彼を育てた「阪神間モダニズム」と呼ばれる文化的風土から説き起こされ、サントリーの「サ」の字もない、広告色を徹底的に排除した小冊子『洋酒天国』が創り出されるまでと、それを担った人びとの視点から、『洋酒天国』という冊子が昭和30年代の社会風俗のなかで果たした役割が興味深くつづられることになる。
またいっぽうで、昭和初期のモダニズムを牽引した『新青年』が引き合いに出され、社会風俗を担うモダニズムの風潮を代表する両誌の比較からそれぞれの時期の文化的色合いの違いまで言及するように、視野は広い。
最近山口瞳さんの文章から遠ざかっていたけれど(別に他意はない)、本書を読んでいたらまた山口文学を読みたくなってきた。こんな一節を読まされたら、もうたまらないのである。

男が酒を飲みに酒場に行くことが、いかに大切な意味をもっているか。山口瞳は、それをなんとか世の奥方たちにわかってもらいたかった。だから、噛んで含めるようにエッセイで訴えている。一生懸命なのだ。これは本人が真剣だけに、余計におかしいのである。(152頁)
しかし、古今東西、酒呑みが酒を飲む理由は、雨が降ったから飲む、晴天に恵まれたから飲むということなのだ。山口瞳はそれを一番知る人であるから、ムキになってこう書くからちょっとおかしいのである。これはそのまま『洋酒天国』の奇妙なおかしさにつながっている。(同上)
わたしはもっぱらビール党だが、サントリーのビールは口に合わない。しかもウィスキーに至っては、十数年口にしていないかもしれない。いま飲めば、若い頃わからなかったウィスキーの良さがわかるのかもしれぬ。本書を読んでいたら、山口さんの文章に浸りたくなってくると同時に、ウィスキーも飲んでみたくなったから不思議だ。