サヨナラダケガ…

井伏鱒二全詩集

井伏鱒二が「人生別離足ル」という漢詩の一節を「サヨナラダケガ人生ダ」と訳したことについては、山本夏彦さんのコラムで知ったのだと思う。いま見てみると藤原正彦『「夏彦の写真コラム」傑作選1』*1新潮文庫)に収められた「君たちはどう生きるか」で触れられており、同書を読んだのは今年3月のことだから(→3/19条)それほど時間が経っているわけではない。
最近読んだ文藝春秋『わたしの詩歌』*2(文春新書)でも井伏の漢詩訳を取り上げた人がいる。養老孟司さんである。ただし「サヨナラダケガ人生ダ」の詩ではなく、次の詩であった。

家ヲ出テミリャアテドモナイガ
正月気分ガドコニモ見エタ
トコロガ会イタイ人モナク
阿佐ヶ谷アタリデ大酒ノンダ
養老さんは原詩を紹介していない。『厄除け詩集』にあるとあったので、これまで古本屋などで出会っても素通りしてきた講談社文芸文庫版がいよいよ気になってきたのだった。ところが幸いなことに今月岩波文庫から井伏鱒二全詩集』*3が刊行され、前記『厄除け詩集』はおろか井伏が生涯に書いた詩のすべてがここに収録されたのは快事であった。
さてその『井伏鱒二全詩集』によれば、上記大酒の詩の原詩(高適の「田家春望」)はこうなっていた(漢詩の右の部分は岩波文庫版のテキスト。養老さんの引用と若干異なる)。
出門何所見  |  ウチヲデテミリヤアテドモナイガ
春色満平蕪  |  正月キブンガドコニモミエタ
可歎無知己  |  トコロガ会ヒタイヒトモナク
高陽一酒徒  |  アサガヤアタリデ大ザケノンダ
一読理解されるように、井伏訳はこれを俗謡調にうつしかえる見事な訳で、これなら難しい漢詩も楽しめるような気がする。この訳業について養老さんは、
井伏の田家春望は、あくまでこうなのであって、これ以上でもこれ以下でもない。こう書くしかない。そうした抜き差しのならなさは、言葉のつながりのなかに生じる。だからテニヲハだって、うっかり手を入れると、全文に手をつけることになってしまう。(55頁)
と絶賛する。ついでに、「サヨナラダケガ人生ダ」の詩は、
勧君金屈巵  |  コノサカヅキヲ受ケテクレ
満酌不須辞  |  ドウゾナミナミツガシテオクレ
花発多風雨  |  ハナニアラシノタトヘモアルゾ
人生足別離  |  「サヨナラ」ダケガ人生ダ
となる。抜き差しのならなさの点ではこちらも見劣りがしない。
ところでこうした漢詩訳だけでなく、井伏の詩はいずれも肩の力を抜いて作ったような、ノンシャランな洒脱さがあって、読んでいてまことに愉快な気分になってくる。「散文を書きたくなくなる」とき、「書いてもつまらないやうな気持になる」(野田書房版『厄除け詩集』序)とき、厄除けのつもりで書いた詩ということで、そうした気分転換の果実のわりに、いや気分転換のおかげで、こんな面白い詩が生まれるのだ。
けふ顎のはづれた人を見た
電車に乗つてゐると
途端にその人の顎がはづれた
その人は狼狽へたが
もう間にあはなかつた
ぱつくり口があいたきりで
舌を出し涙をながした
気の毒やら可笑しいやら
私は笑ひ出しさうになつた

「ほろをん ほろをん」
橋の下の菖蒲は誰が植ゑた菖蒲ぞ
ほろをん ほろをん

私は電車を降りてからも
込みあげてくる笑ひを殺さうとした
(「顎」)
勘三さん 勘三さん
畦道で一ぷくする勘三さん
ついでに煙管を掃除した
それから蛙をつかまへて
煙管のやにをば丸薬にひねり
蛙の口に押しこんだ

迷惑したのは蛙である
田圃の水にとびこんだが
目だまを白黒させた末に
おのれの胃の腑を吐きだして
その裏返しになつた胃袋を
田圃の水で洗ひだした

この洗濯がまた一苦労である
その手つきはあどけない
先づ胃袋を両手に受け
揉むが如くに拝むが如く
おのれの胃の腑を洗ふのだ
洗ひ終ると呑みこむのだ
(「蛙」)
「蛙」の詩は、先日「トリビアの泉」の傑作トリビア特集で見た、胃を吐きだして洗う蛙の衝撃映像そのままだ。そのときは蛙の解剖や道路の上でつぶれた蛙を思い出して目をそらしそうになったが、そのシーンが井伏にかかるとこんなお伽噺のような詩になるのか。
巻末解説の穂村弘さんは「顎」から「ただ一度きりの命とその運命が、他人とは交換不能だという、やはり絶対的な生の法則」を導き出している。何とも深刻そうな意味づけだが、たんに「ふっ」と頬をゆるませて笑う自由も許されよう。