近づいてきた

通勤快毒

泉麻人さんの文庫新刊『通勤快毒』*1講談社文庫)を読み終えた。本書は同じく講談社文庫に入っている『地下鉄の友』『地下鉄の素』『地下鉄の穴』『地下鉄100コラム』につづく「夕刊フジ」連載の人気コラムの文庫化である。
本書を読んで、「近づいてきたなあ」というある種の感慨をもった。「近づいてきた」というのには二つの意味がある。
これまで読んできた同シリーズの作品は、すべて私が東京に移り住んだ以後に読んだとはいえ、当然書かれた時期はそれ以前になる。時事的に記憶のある話題を取り上げた文章であっても、また、自分が日頃乗っている地下鉄(およびその車内風俗)の話題であっても、何か遠い国の出来事のような気がして、距離感を感じていた。これにくらべ本書『通勤快毒』は1999年から2001年にかけて書かれたものだから、自分も同じ空気を吸っていた同時代の東京についての話題が多く(むろん話題は東京に限らないが)、それゆえ「近づいてきたなあ」という思いを抱くことになる。
いまひとつは泉麻人さんの感覚に自分のそれが「近づいてきたなあ」ということ。以前『家庭の事情』*2光文社文庫)に触れたとき、初めて泉さんを知ったのは80年代後半の「テレビ探偵団」であり、そのときは「昔のテレビ番組にマニアックなほど詳しい人、オタク評論家の走りといった印象」を受けたと書いた(→4/28条)。大きな距離を感じていたのである。ところが本書を読むと、泉さんが社会的な事件について思うこと、また世相風俗に対して感じること一々に共感してしまうのだ。自分と考え方の近い人ことをこのように言うのは恥知らずかもしれないけれど、きわめて「まっとう」な考え方をする人であると、あらためて親近感を感じてしまった。
ランダムにページをめくってみても、たとえばシャツの裾出しや(「たすき掛けデビュー」)、テレビ中継の現場で携帯電話を持ちながらテレビに映ろうとする若者について(「「中継現場」のケータイ」)、携帯電話の着メロについて(「危険を知らせる信号」)、スターバックスに代表されるコーヒーショップの特異性(「マキアートな街」)、携帯電話のメールを親指で巧みに打つ人びとへの驚嘆(「親指の時代」)などなど、深くうなずくことばかり。
着メロについては、自分の好きな曲にしたのに、たいていは鳴ってすぐに電話をとるから聴けないという矛盾について、

ユーザーの立場としても、自慢の選曲を他人に聴かせたい意識と、「おまえ、そんな曲が好きなのか?」とプライバシーを知られる照れ臭い気分とが、相半ばしているようなところがあるのだろう。(68頁)
と鋭い指摘をする。私は映画「犬神家の一族」の主題曲「愛のバラード」を着メロにしているが、好きでその着メロに設定しているくせに、やはり鳴ったら恥ずかしいのですぐ電話をとるだろう。はなはだしい矛盾である。そもそもふだんはマナーモードにしているから着メロは鳴らない。
歴史感覚というか、ある事柄の歴史への位置づけといった歴史認識もきわめて客観的かつ安定的で信頼できる。やはり昭和30年代への興味という確固たる視点をお持ちなので、現代をも相対的に眺めることができると思われる。
たとえば、中継現場の若者について、携帯片手に仲間にテレビに映ったことを知らせるというスタイルも将来は時代遅れになるだろうとして、「何十年か後には、二十世紀末の貴重な歴史映像として、ディスクのなかに収められていたりするのだろう」と予言する。
さらに、娘さんが遊んでいるドラクエを一緒にやりながら、「ふっかつのじゅもん」という難解な暗号文を書きとめなければセーブ・ロードができなかった初期のドラクエを懐かしそうにふりかえり、
「おまえらは知らないだろうが、お父さんの時代はドラクエやるにもいろいろと苦労したんだぞ」
と、まるで戦時体験をした昔のオヤジが、スイトンで食いつないだような苦労話を娘にしても、相手にされない。(208頁)
という話には、涙が出るほどの深い共感をおぼえた。私も何年後かにはそう思うときがくるに違いない。
文庫版には中野翠さんとの対談が付いている。中野さんもまた私にとっては共感できる人の一人なのだが、泉さんと中野さんの対談を読んでいるうち、二人の議論がエスカレートして置き去りにされたしまったような気がして、なぜか違和感をおぼえた。