ベル・エポックという切り口

日本のベル・エポック

わが国では元号という年号表記があるから、西暦の表記と併用して混乱することがある。逆にふた通りあることが、何かと時代把握に便利なときもある。
日本史をやっていると、「十五世紀の○○は…」などと書きながら、当時においては西暦による時間把握は当然なかったわけなので、こうした把握をしてしまっていいものなのかときどき躊躇してしまうことがあって、でもこうすることによって今まで見えなかったことが見えてくることもあるからそのまま押し通してしまうことがある。「1960年代は…」とまとめることと、「昭和30年代は…」とまとめることでは、少なからず重なっている部分があるとは言っても、やはり微妙に受け止め方は違ってこざるを得ず、言う側としてもこのことを意識して使うべきなのだろう。
飯島耕一さんの『日本のベル・エポック*1立風書房)はその意味で、ユニークな切り口から近代文学およびその周辺の事象を捉えた刺激的な本だった。
たとえば明治・大正・昭和と元号ごとに流れを把握するのが常套だろうし、いっぽうで1920年代、1930年代といった把握も、欧米との関わりで重要性を持つ。飯島さんによる「ベル・エポック」という把握は、むろん欧米の関わりであることはかわりはないのだが、それとはまた異なる切り口となる。
ベル・エポックとはよく聞く言葉だが、「よき時代」「幸福な、楽しかりし時代」という意味だという。「西欧のとくにパリでは、今世紀(20世紀―引用者注)初めから、大体第一次大戦の始まるまでの時代」をこう称しているとする。飯島さんはこれを日本風にアレンジし、20世紀初めから関東大震災あたりまでの時期を「ベル・エポック」と規定してこの間に書かれた文学作品や作家、画家、建築家、精神医学者らの行動を切り取ろうとする。元号でいえば明治末から大正期にあたり、西暦でいえば1900年から20年代にあたる。
大正といえばリベラルな時代というイメージが先にあるし、また20年代といえば、海野弘さんによるモダン都市の時代というシェーマがすでに有名である。飯島さんによる「ベル・エポック」という把握はこれらと重なりつつ、微妙にズレるという面白さがある。
本書で取り上げられている文学者は漱石の『猫』(1904年第一回発表)、鴎外、荷風荷風のパリ滞在は1900年代、『腕くらべ』は16-17年)、芥川、鏡花(『高野聖』は1900年)、春夫、紅葉、露伴、谷崎ら。飯島さんの視点(嗜好)は、たとえば荷風の作品を論じた次の一節に如実に示される。

こういうわけで『腕くらべ』をこの機会に再読して面白かった。『つゆのあとさき』、『ひかげの花』も読み返したくなったが、これらは『腕くらべ』より何倍もわびしい、貧乏臭い物語であり、一九三一年とか、三四年、昭和恐慌時代の作であって、とてもベル・エポックどころの話ではない。(94頁)
ベル・エポックとは、華やかで、デカダンで(229頁)、「みだら」な(241頁)時代だったのである。
同じベル・エポックの時代に発表された作品であっても、たとえば漱石の後期作品などはベル・エポック的ではない。なぜか谷崎の章で漱石の『行人』などが詳しく論じられるのだが、読んでいてどうもつまらなく感じるのは、本書のテーマとの乖離がそのまま伝わってくるからなのだろうか。
以下蛇足。瑣末なことで、こんなことを気にするのは私だけなのかもしれないが、引用文の漢字が正字・新字ごちゃまぜになっている。正字と新字の混用はときおり本文にまで影響を及ぼす。丸谷才一さんのように、この字は正字を使うという原則があるわけではないようなので、新字の統一のほうがまだ読みやすい。誤植もまま見受けられ、いまひとつ編集が粗雑なのが気になってしょうがない。