新しい荷風像、埋もれた荷風ゴシップ

永井荷風 ひとり暮らしの贅沢

永井永光・水野恵美子・坂本真典永井荷風 ひとり暮らしの贅沢』*1(新潮社・とんぼの本)を読み終えた。
荷風に関する本は間断なく出版され、その都度「いろんなネタがあるものだなあ」と感心してしまうけれど、本書を読んでもやはり同じことを感じないわけにはいかなかった。ひとえに、『断腸亭日乗』という詳細な日記がさまざまなアプローチを可能とする宝庫となっているからにほかなるまい。
これに加え、荷風の従弟(父の弟の子供)にあたる長唄師杵屋五叟の次男で、荷風の養子となった永光さんが、荷風の遺品を処分することなく大事に守り続けてきたことも大きな理由となっていることを知った。
本書によれば、永光さんは荷風没後、相続した市川の家を増築したさい、荷風が生前寝起きしていた書斎に隣接して畳二畳半程度の広さで大人も中で立てるくらいの高さがある大きな耐火金庫を作りつけ、そこに『断腸亭日乗』原本をはじめとする荷風の遺品約三千点を収め、現在に至っているのだという。『断腸亭日乗』の原本はいま見ても惚れ惚れするほど美しい和綴じ本であるが、これもひとえに永光さんの努力のたまものなのだ。
本書は書名にあるとおり、荷風の「ひとり暮らし」のあり方にスポットライトをあてた内容となっている。二度結婚はしたものの、生涯ほとんど独居生活と言うべきだろうから、荷風のひとり暮らしのスタイルと言っても、ほぼ基本的な生活スタイルと言い換えて間違いはないものと思われる。
ただ本書で主に取り上げられているのは、晩年の、戦後市川に移り住んでからの生活である。ひとり暮らしの生活スタイルや、自炊の様子、好きな食べ物、晩年に通った浅草や市川の風景、独居老人の目をなごませた花々などなど、坂本真典さんの美しい写真とともに、静かなひとり暮らしの様子が再現されている。
いま「静かな」と書いたが、これはあくまでイメージ。現実は必ずしもそうではなかった。我が儘にして吝嗇で、住まいを提供してくれた人たちともトラブルが絶えないような、厭な爺さんぶりも伝わってくる。あまり近所にいてほしくないし、まして一緒に住みたくもないような爺さんなのだけれど、いっぽうでなぜか惹かれるものがある。世の中に向き合う姿勢に強烈な引力を感じるのだ。
本書巻末には、晩年荷風が執筆した春本「ぬれずろ草紙」が抄録され、それらが執筆された頃の荷風の姿や、公開に至った経緯などが永光さんによって詳細に記されている。これは『新潮45』昭和61年5月号のみという条件で掲載された記事を、永光さんの許可を得て再録したものだという。文末に「この公開には私なりの考えがあっての一回きりの体験だった。これよりのちは一切これを公けにするつもりはない」と結んでいるから、本書の再録が真に最後の機会となるのかもしれない。
この「ぬれずろ草紙」は、夫を戦争で亡くした女性が、戦後パンパンまがいに米兵と交わるさまを生々しく綴った春本である。『愛の空間』を書いた井上章一さんが読んだら喜びそうな描写もある。荷風は、『腕くらべ』『つゆのあとさき』『墨東綺譚』など玄人の女性を書いてきて、晩年に取り組もうとしていたのが、外国人相手の娼婦(パンパン)だったのではないかと指摘されている。永光さんは、この「ぬれずろ草紙」の未完成であることを強調する。春本というかたちで書かれたのは、必ずしも荷風の意図したところではないというのだ。
晩年荷風が頻繁に通い、日記によく登場する銀座の「フジアイス」という店は、実は「当時〝洋パン〟がたむろする根城として知られた店」だったという指摘は、その時代を知らないと見過ごしてしまう記事である。また、一昨年催された「市川の荷風展」のおり集められた近所の人の聞き書からは、荷風が焼豚好きだったという証言が出てきた。日記には焼豚のことは少しも出て来ないという。地元の人の証言が、焼豚好きという知られざる荷風像を露わにした。
このように、いまなお荷風に関する新しい事実が明らかにされるいっぽうで、埋もれたまま永遠に知られることがなくなった事柄もある。荷風が終の棲家に移る前に身を寄せていた家で、貸主から突然立ち退きを強要された。温厚で荷風に好意的だった主人がなぜ突然立ち退きを請うたのか。のちその理由を問われ、「復讐がこわいから何も言いません。その代り荷風が死ねば洗いざらいぶちまけますよ」と答えたというが、荷風より先に亡くなってしまったため、真相は藪の中になったまま。どんな事情が裏にあったのか、知りたいと思った人は多かったろうに。わたしもその一人だ。