日記の裏側

昭和の東京 記憶のかげから

拙著『記憶の歴史学 史料に見る戦国』*1講談社選書メチエ)では、「日記に書かれなかったこと」をめぐって、それを別の視点から明らかにできる証言を取り上げ、考えてみた。
具体的に触れたのは、『古川ロッパ昭和日記』であった。正岡容の通夜の席上、ロッパはある芸人の香奠の少なさに憤り、満座のなか彼を罵倒したという場面。これは正岡の弟子である小沢昭一さんの目撃譚であり、それを聞いた友人(学校の後輩)である矢野誠一さんが『エノケン・ロッパの時代』*2岩波新書)のなかで記している挿話である。しかしこの“事件”は、ロッパ本人の日記には一行たりとも書かれていない。
ロッパが日記に書かなかったことと、実際あったことの懸隔。しかしよくよく考えてみれば、通夜でのひと幕はあくまで小沢さんが目撃し、それをことばで再現したに過ぎず、さらにそれを矢野さんが再話したという、真実にとってみれば何人もの目を経過したうえでの像であった。そこにすでに何らかの変形がなされているかもしれない。そういう意図の本であったのに、この挿話にかぎって、そこまで思い至らなかった。
さてその矢野誠一さんの新著『昭和の東京 記憶のかげから』*3日本経済新聞社)にもまた、日記に書かれなかったことをめぐっての面白い話が紹介されていた。この新著自体、劇評家でありお酒好きである矢野さんの交友録、回顧録として味わい深いものがあった。人間長く生きると、それだけ知友の死と多く出会うことになる。第二部「あの人この人」は主にそうした追悼文が収められており、哀感のこもったあたたかい文章が綴られている。
その冒頭に「正岡容荷風信奉」という一文がある。またしても正岡容だ。たしか敗戦直後、荷風と正岡は市川の近所に住んでいたはず。ここでは、昭和21年8月11日に、荷風が正岡邸を訪れたときのことを、正岡の日記と荷風の日記(『断腸亭日乗』)を並べて紹介している。まずは正岡の日記。

永井先生来書。一家驚喜。小蛇生、来。午、突如、海水帽、開襟シヤツの永井先生ご来訪たゞ/\その光栄に夫婦狼狽、なすところを不知。先生、前歯は欠けたれど日焼けしておん若く「問はず語り」特製本、「腕くらべ」いづれも御署名本給はる。文学談、寄席懐古談、オペラ館のこと、「来訪者」主人公のこと、快談不尽、暮に至る。崇敬廿有余年、現世拝眉を断念しゐたりし永井先生御来庵の栄に浴す。菲才不敏の作者冥利、茲に尽く。挺身力作せざる可からず。月団々。
やはり嬉しいことがあると、荷風同様お月様は丸く見えるものらしい。いっぽうおなじ日の『断腸亭日乗』。
晴、午後正岡容氏を訪ふ、夜菅原明朗氏来話、
これを矢野さんは、正岡容の熱い思いに対する荷風の醒めた反応」ととらえている。たしかに憧れの荷風の訪問を受け、様々な話を聞いて大感激の正岡にくらべ、荷風の「午後正岡容氏を訪ふ」は素っ気なさすぎる。これもまた、ふたつの日記の懸隔、日記に書かれなかったこと、と言えるのだろう。
けれどもそこでわたしは立ち止まる。たしかに荷風の記述は素っ気ないが、それがすなわち「醒めた反応」と言えるのかどうか、と。『断腸亭日乗』のこの前後の記事を見てみると、荷風はたくさんの人の訪問を受けたり、逆に訪ねたりしている。そのほとんどがおなじように素っ気ない記事なのである。誰かと会って話した内容を書いたり、そのさいの自分の感情を記したりすることは原則としてしなかったと考えれば、荷風正岡容に対して醒めていたとはかならずしも言えないのではないか。本当は荷風も興奮して話していたかもしれないのである。でもそこまでは日記に書かないのが、このときの荷風の流儀だった。それにしても、荷風がかぶっていたという海水帽とは、どんな帽子を指すのだろうか。
ところで、いま読んでいる澁澤龍子さんの澁澤龍彦との旅』*4白水社)にも、日記に書かれていないことについての興味深い話が記されている。
澁澤龍彦は、電車の切符を買ったりするといった俗事がまったく苦手な人であり、極度の方向音痴でもあったという。龍子さんと結婚後、日本国内から海外まで旅に出ることも多く、とりわけ海外旅行のときは詳細な日記をつけていた。これらは『滞欧日記』にまとめられている。この日記は、書斎派を脱していかにも行動的な、澁澤のイメージを変えるような記事に満ちているが、龍子さんはこのように書く。
ヨーロッパを旅行した際に記した『滞欧日記』を読むと、ホテルを予約したとか切符を買ったとか書いてあって、「意外とマメなんだなあ」と思われる方もいるかもしれませんが、実際は全部わたしがやっていました。(37頁)
日記にはさもひとりで散策したかのように書かれている場合でも、たいていわたしがいっしょでしたので、見知らぬ町で迷子になるという危機はついに訪れませんでした。(81頁)
とくにふたつめに引用した部分を読むと、某作家の某ミステリ長篇を思い出してしまった。別に澁澤は日記に嘘を書いているわけではない。都合の悪いことを意図的に隠したつもりもないだろう。旅行には龍子夫人もかならず帯同し、必要なことはすべてやってくれる、それが当たり前だから書かなかっただけだ。それを考えると、日記とはつくづく厄介な代物だと思わずにはおれない。