第100 あといくたびぞ谷中の桜

2012年4月谷中墓地

朝早起きして身支度も早くととのったので、子どもたちを待たずに出かけることにした。陽気も良いから、もう一度谷中墓地を通って出勤しようという算段だ。
先週木曜(5日)に谷中墓地を通った。そのとき桜は満開まであとひと息といった状態だった。最近谷中墓地を通るのも年一度程度になってしまったが、今年は思い立ってめずらしく二度目の谷中である。あれから5日、満開を通り過ぎ、花びらがはらはらと舞い落ちはじめている。雪が舞っているようですこぶる風情がある。毎度このことばしか浮かんでこないようになってしまったが、「薄紅の砂時計」(松任谷由実「経る時」)のなかを歩く気分。日本人で良かったと思う瞬間。
今年でわたしも45歳。三島の自決した年齢に達する。このまま息災で東京勤めを果たすとしても、あと残り20年。年一回の谷中の桜。年齢を重ねれば、日暮里から本郷まで歩くという体力があるとは考えられないから、あといくたび谷中の桜を見ることができるのだろう。そんなことを思うと胸がしめつけられるように切なくなった。桜の季節ここをおとずれるたびに、そんなことばかり浮かんで世のはかなさを思う。2009年にも似たようなことを書いている(→2009/4/11条)。
今日4月10日は色川武大さんのご命日だ。桜の季節に谷中を歩き、その都度墓地では獅子文六岩田豊雄)・色川武大お二人の墓前に手を合わせているのだが、2009年にもこの日に谷中をおとずれていた。
色川武大さんは、平成元年四月十日に亡くなった。それから今年で23年。行雲院大徳哲章居士。わが敬愛する文人、“人生九勝六敗”教の教祖でもある。ご命日のあとに詣でると、お花や煙草、お酒が墓前に供えられていることがあるが、早朝ということもあり、お供え物はまだ何もなくひっそりとしている。これからお参りに来る人もたくさんいるに違いない。
今日はとくに念入りに手を合わせる。塋域に散っていた桜の花びら一枚を拾いあげ、いま読んでいる本にはさんだ。吉行淳之介編『酔っぱらい読本』*1講談社文芸文庫)。このなかに色川さんのエッセイでも採られていればそこにはさんだのだが、あいにく収録されていない。やはりこの季節の谷中はいい。おとずれると、それまでざわざわしていた心がすっと落ち着く。
先週は谷中墓地から瑞輪寺日本美術院を通って三浦坂を下り、異人坂を上るというルートを歩いた。谷中を歩いて通勤するときは、たいていこの道を通る。しかし今日は目先を変えてみる。谷中墓地を出て、SCAI THE BATHHOUSEと交番のある角を折れ、澁江抽斎のお墓のある感應寺と、「愛染かつら」ゆかりの愛染寺(自性院)が並ぶ通りを歩いて、三浦坂上に出るルート。自性院前には、これから小学校(谷中小学校なのだろう)に向かう子どもたちが集っている。一年生とおぼしき女の子には、お母さんが寄り添っている。
昨年墓地をおとずれたときもこのルートを歩いたことを突如思い出した。というのも、墓地を出て愛玉子のある通りを交番のほうへ向かって歩いていたとき、風もさして強くないのに突然通りのお店のシャッターがガタガタと揺れ、建物の中から人が飛び出して来たという場面がよみがえったからだ。最初不審に思い、あたりを見回して、電線もゆらゆらと揺れていることで、地震であることをようやく悟った。いまウィキペディアで調べてみると、4月12日午前8時8分、千葉県東方沖を震源とするマグニチュード6.4の余震だったとおぼしい。大地震からまだ一か月、いつもどおり桜は咲き、人の目をなごませてくれてはいたものの、東京の人の心もまた、まだまだ落ち着いていなかった頃なのだ。
さて感應寺の境内でも桜の花は満開で、自性院の早咲きのしだれ桜はすでに多く散ってしまっていたけれども、ソメイヨシノの薄紅よりも深い紅色がまだ確認できるほどに花は枝に残っている。三浦坂へ出ると、坂の中腹にある宗善寺の桜も満開だ。かつてこのお寺の境内にあった桜や梅は、枝が三浦坂に大きくはりだして坂の風景に興趣を添えていたものだった。しかし何か憚られることがあったのだろうか、いつの頃からかそれぞれの枝は道路に出ないように剪定されてしまった。
この三浦坂を下るのもあといくたびあるのだろうか。