「田舎者」とは何か

男性自身・英雄の死

たっぷりとあいだに時間をとって、ともすれば間隔をあけすぎてそのまま忘れ去ってしまうのではないかというくらいのペースで、山口瞳さんの文庫版『男性自身』を新しいほうから遡って読むことをしている。今回『男性自身 英雄の死』*1新潮文庫)を読み終えた。
私は最近の山口ファンであるので、「命がけの僻論家」「田舎者嫌い」といった山口さんについてまわるイメージが先行して作品世界に足を踏み入れている。少しずつ古いエッセイに遡って読んでゆくことで、そうしたイメージの出所というか、原点に行きあたるようになってきた。本書には上記した二つの山口像に関する当人の感懐が述べられている。
「命がけの僻論家」というキャッチフレーズは司馬遼太郎による。そう呼ばれるに至った経緯は「一種の不安」と題するエッセイに書かれている。このなかで自分が「東京に生れて東京に育った人以外を人間として認めない」人間であると批難されることに対し、こうした発言を口にしたことがないときっぱり否定したうえ、返す刀で「私は田舎者が嫌いだ」と断言する。どういうことかと驚きながら続きを読むと、山口さんは「田舎者」を次のように定義するのである。

しからば田舎者とは何であろうか。定義メーカーとして言うならば「列車やバスの行列に割りこみをする人」である。解説を加えるならば、都会生活のルールを破る人である。(141頁)
都会−田舎といった空間的関係とは無関係で、多分に人格的な区別だと言えようか。むろん「地方居住者」が山口さんのいうような「都会生活のルール」をすべて身につけているとはいえまいから、「都会生活のルールを破る人」の多くが「地方居住者」ないし「地方出身者」であり、「田舎者」に含まれるとも言える。
とはいえ東京生まれ東京育ちの人間ですら「都会生活のルールを破る人」が少なくない。忌み嫌う対象を呼ぶのに、「田舎者」という江戸時代以来の江戸っ子たちが地方の人間を蔑んだ言葉を借りてきたにすぎないのである。礼儀作法を諄々と説き、新社会人に社会人としてのルールを教えるという姿と一貫性をもつ。
そのものずばり「東京の人」と題されたエッセイでは、東京の人がめっきり少なくなってきたとして、「東京の人」を「その父が若い時に東京以北、あるいは関東近県から出てきた人で、下町に住み、そこで生まれ育ち、東京の下町気質が身についている人」と定義する。もちろん私はその資格はない。あえて言えばわが子供たちは有資格者であるけれど、たぶんこれからの世の中「下町気質」は身につかないだろう。まあ無理に子供を「東京の人」にしようというつもりはないが。
さて、その東京の人の気質とはどのようなものなのか。山口さんは次のように語る。
こういう、東京の人は、まず、現代ではダメ人間である。バイタリティが無い。出世しません。相手チームの選手の腕をへし折ってという気持ちは、さらさら無い。血が濃くなっている。「怨念」がない。(235頁)
いままでずっと心の中で思うだけで口にしたり文章にしたりしたことがないのだが、この際言ってしまおう。どうも私は山口さんやその他多くの「東京人」論者の人が定義するような「東京っ子」の気質に似通う性格であるような気がして仕方がない。もちろんそれゆえに自分が「東京っ子」だと胸を張るつもりはないし、また「東京っ子」がもつ洗練されたモダンな雰囲気などおよそ身についておらず、泥臭い。でも、いろいろな人が「東京っ子」の美点でもあり欠点でもあると指摘するような性格とわが性格は多く重なり合っているゆえ、山口さんの言うことに甚だしく同情を感じてしまうのである。
本書の核心である梶山季之との交友について触れる前に、「東京の人」論のことで多くの字数を費やしてしまった。梶山季之と山口さんの交友についてはまた明日書き継ぎたいと思う。