山藤章二強化年間宣言

アタクシ絵日記忘月忘日2

昨日書いたように、吉行淳之介さんの『贋食物誌』新潮文庫)を読み、山藤章二さんのイラストレーションにあらためて魅せられた。『酒呑みの自己弁護』などを読んだときにも同様に面白さを感じたのだが、たまたま文庫版『贋食物誌』と一緒に、同じく山藤さんが挿絵を担当している野坂昭如『エロトピア』(文春文庫)2冊を見つけたことも、山藤さんへの関心を一気に増幅させたのである。
山藤さんの挿絵は、山口瞳さんや吉行さんが書いた文章と付かず離れず、エッセイの面白さを引き立てることはもちろん、文章から切り離し単独のイラストとしても楽しめる。しかも山藤章二という一人のイラストレーターの自伝的要素まで帯びている。それだけで「絵物語」になっているのだ。
だからといってまったく切り離してしまったら面白さが減じてしまう。文章と一体化してこそ、そしてそれが連載物であるほど味わいが増すように思う。
『贋食物誌』を例にとれば、自伝的要素がある単独イラストとしては、「29 鯖1」の項。イラストは7歳の山藤少年が、三重県疎開していた当時、もし負けたら家来になれと言われ地元の小学校のボスと相撲をとり、見事打ち負かした絵である。「爾来、あんなに血のたぎるような興奮は経験しない」とキャプションにある。なぜこんなイラストが描かれたかと言えば、本文で吉行さんが小学校時代の喧嘩経験を書いているのである。
またたとえば「57 ヨーグルト」の項では、中学生の頃(1950年)、満員電車の中で手製弁当をすられた体験が描かれている。「麦飯に梅干の弁当が盗まれる世相をいま子供たちに話をきかせても、彼らにとっては、おとぎ話より遠い話でしかないようだ…」とある。この本文には、昭和25年頃吉行さんが買ったばかりの靴を盗まれた話が書かれてある。
個人的趣味に走っているイラストとしては、「噺家シリーズ」と呼ぶべきものがある。「37 天麩羅1」では春風亭柳好「明るく粋な芸風」を再評価し、「55 鰻2」「56 鰻3」では、二回にわたって桂文楽が取り上げられる。前者では「〝鰻〟とくれば誰が何といおうと文楽の「鰻の幇間」」、後者は「〝鰻〟とくれば誰も何ともいわないけれど文楽の「素人鰻」」とあって、それぞれの噺を演じている文楽の姿が描かれるという按配だ。
「按配」と言えば、吉行さんの文章中にこの単語が頻繁に使われることを挿絵のなかで指摘し(「46 馬2」)、この数回あと、吉行さんは次のように反応している。

山藤章二は、よく気のつく(悪い意味で)男である。このごろの私の文章に「按配」という単語が多いことに素早く気づいて、それに関連したイラストを描いた。このときの私の似顔は、いつものヒドさより、さらに五倍は悪相である。(「52 卵」)
こんな著者と挿絵担当者の丁々発止の掛け合いがあまりに見事で読むのが愉しくてたまらなかったため、よし、今年は山藤さんの挿絵のあるエッセイ集を集め、読もうと決意した。永江朗さんの『恥ずかしい読書』を見習い、今年を「山藤章二強化年間」と定めた。山藤章二さんの挿絵を媒介に、また読書の世界が広がるような予感がする。いま、古本屋をまわるときの目的がひとつできて、とても浮き浮き気分でいる。
ここまで書いて、今日入手した『アタクシ絵日記 忘月忘日2』(文春文庫)に、山藤さん自身が『夕刊フジ』での仕事を振りかえる(もちろんイラスト付!)一文を見つけ、「やったあ」と歓喜した。それによれば、同誌での100回連載という仕事に山藤さんは16年で13回登板しているという(1987年時点)。
絵のスタイルは、一九六九年に野坂昭如さんと組んだ「エロトピア」(週刊文春)で創った、〈作家の文字エッセイに対し、イラストエッセイで応じる〉というスタイルを、ほぼ原型通りに受け継いでいる。(51頁)
そしてそれまで組んだのは、梶山季之山口瞳筒井康隆吉行淳之介井上ひさし五木寛之渡辺淳一藤本義一青木雨彦中島梓・つかこうへい・村松友視景山民夫の13人で、このとき新しく林真理子さんの連載が決まっている。
山藤さんは、「初期から中盤にかけては年長者が相手だったのが、中島梓を境に年下になってきた」とし、それがいずれも逆指名なので驚いたと書く。林真理子さんの場合も逆指名との由。
さらにイラスト連載にあたっての意図もきちんと示されていた。
このお座敷での小生の芸風は、「返しワザ」である。作家をからかったり、茶々を入れたり、毒づいたりする。時には文章とはまったく関係のないことをかいたりする。(52頁)
以下、山藤章二さんの挿絵が入った本のリストである。
山藤章二挿絵本リスト】(太字は未入手)

このうち『目と耳と舌の冒険』は手配ずみ。五木・井上・景山・筒井・中島・林各氏の本は昨日今日のたなべ書店めぐりで入手した。渡辺淳一さんの連載だけ、本にまとめられたのかいまのところ調べがついていない。乞ご教示。
山藤さんは1937年生まれとのこと。『贋食物誌』が書かれたのは73-74年にかけてだから、あれは37歳頃の仕事だったのだ。ちょうど自分と同じ年齢の頃の仕事と知って、呆然としている。
【追記】山藤章二挿絵本リスト補訂情報