「ごみ溜め」のなかの光

池袋モンパルナス

仙台に住んでいた頃、東京のなかでもっとも身近に感じていた町は池袋である。
『書店風雲録』を読んだとき(→2003/12/22条)に書いたが、東京に住んでいた先輩から池袋リブロのすごさを教えてもらい、上京のたびに訪れた。その上階(セゾン美術館?)で開催された澁澤龍彦展をわざわざ見るために上京したこともある。上京のおりの用務先の多くが丸ノ内線沿線にあったということが、池袋に立ち寄るきっかけを与えてくれたのだろう。恥ずかしながら告白すると、東京の地下鉄網は当時の私には複雑すぎて乗り継ぎが怖かったのである。
このほか池袋には、芳林堂書店とその上にあった古書店高野書店、また西口から立教大学方面へ少し歩いたところにある通称“二股交番”近くにある「文庫ボックス」という文庫専門新刊書店など、なぜか池袋だけ突出して親しんでいる。
東京に来てからも、池袋はわが家から比較的近くにある大きな町なので、他の町(たとえば新宿や渋谷)以上に訪れる頻度が高い。といっても上記した西口のポイントに加えて西口ではジュンク堂書店、また東口ではサンシャインまでの通りに限定される。
そんな池袋の「表の顔」の、しかもそのごく表面しか撫でていない私であるが、少し奥まで入り込む機会がいくたびかあり、いままで持っていた池袋のイメージとのギャップに驚いたことがある。谷端川親水公園を歩いたとき、また、日本ミステリー文学資料館を訪れたとき、大通りから一歩なかに入ると意外に庶民的で閑かな住宅地が広がっていたのである。
宇佐美承さんの『池袋モンパルナス』*1集英社文庫)を読むと、大正〜昭和初期の池袋はむしろ田園の広がる文化の香気高い学園都市であったことがわかる。たとえば自由学園や豊島師範があった。むろん立教大学もこのなかに含まれる。また、その地名のとおり低湿地でもあり、そうした場所には地主によってアトリエ村が次々につくられた。「すずめが丘」「つつじが丘」「桜ヶ丘パルテノン」(現豊島区要町・千早・長崎界隈)がそれで、上野界隈に住むことのできない貧しい美校生(芸大生)たちがアトリエを借りて頽廃的な芸術生活を営んでいたのだという。
パリのセーヌ左岸にあった芸術家の町モンパルナスになぞらえて詩人小熊秀雄によって命名されたという「池袋モンパルナス」においては、近現代を代表する数多くの画家たちが集い、放恣に酒を飲んで語り合い、次々と素敵な作品を生みだした。宇佐美さんはその「生き証人」からの聞き取りをもとに、往事の池袋モンパルナスの活気を余すところなく伝えている。
このところ洲之内徹を介して現代美術へ関心が傾いていることもあり、本書に登場する画家たちのポルトレに大きく惹かれるものがあった。皆が皆個性的で魅力的な人物であるということもある。
主要な登場人物は、寺田政明(俳優寺田農さんの父)、佐伯祐三松本竣介靉光古沢岩美長谷川利行、野田英夫、福沢一郎、麻生三郎、小川原脩、長沢節丸木位里・俊夫妻、熊谷守一ら。大正デモクラシーのリベラルな空気を吸って育った彼らが、左傾しつつ反体制的な身のこなし方で軍国主義の風潮に抗するものの、最終的に戦争という時代の波に呑まれてゆく。そうした姿が池袋という町の歴史の流れのなかで描かれる。
先に「文化の香気高い」と表現した池袋モンパルナスではあるが、貧窮の果てに行路病者として倒れた長谷川利行ほど極端ではないにしても、「その名に似つかわしくなく多分に土俗的であった」(251頁)とあるように、現実は貧しい画家たちの集まりであった。パルテノンに住んだ彫刻家三坂耿一郎はこう述懐する。

池袋というところは、なんかこう、雑多なごみ溜めのような感じもしますし、またそのなかから光るものが感じられる美術家の社会でした。本当の仕事をするには、このごみ溜めのアトリエ村が土台になっている、こう感じたことでした。(276頁)
三坂が書くような「ごみ溜め」だっからこそ、そこには何かを生みださずにはおかないパワーがひそんでおり、戦争突入を目前にした社会に輝かしい一閃を放ったのである。本文庫版は巻末索引も充実しており、今後現代美術に触れたおりにいくども繙くことになるだろう。