山の手と下町は別地方

ムーン・リヴァーの向こう側

小林信彦さんの長篇小説のなかでも、カタカナ(横文字)タイトルの作品、たとえば『イーストサイド・ワルツ』とか、『イエスタデイ・ワンス・モア』『ドリーム・ハウス』『ハートブレイク・キッズ』といったものには、これまでまったく食指が動かなかった*1。一種の“横文字コンプレックス”と言ってもいいだろう。
先日近所を散歩してたまたま立ち寄った新古書店で、帯付の『ムーン・リヴァーの向こう側』*2新潮文庫)を見つけたので棚から抜き出した。この本もやはりこれまでまったく見向きもしなかった部類に属するのだが、昨年の年の瀬から年をまたいで続いている小林信彦ミニブームと、帯付という状態に惹かれたのである。
手にとってみると、夜の永代橋(?)を描いた唐仁原教久さんのカバーイラストが、「大都市の夜のしじま」といった雰囲気で素晴らしく、しかも(またしても)坪内祐三さんが解説を書いている。さらに帯裏にあるこんな惹句に一気に魅了されてしまった。

39歳と27歳が歩いた〈東京〉
道玄坂ビデオ屋目黒不動尊。松濤。/原宿の割烹料理屋。東急文化会館屋上の古本屋。/一の酉の花園神社。麻布トンネル。/浅草の高層ホテル。花屋敷。吾妻橋ぎわの屋形船屋。/洲崎神社。木場のアパート。両国橋のたもと。/回向院。藤の亀戸天神。権之助坂。……。
カバーイラスト、解説者、帯。この三つの要素により購入決定。さらにすぐさま読み始め、その面白さに一気に読み終えた。読まず嫌いといおうか、タイトルだけで敬遠するのはよくないなと反省する。
主人公は離婚歴のある39歳の男。辛口コラムニストで、「性の悩み」を抱えている。彼と、27歳のフリーライターの女性との出会い、恋愛を、東京という都市を背景に描く。これを恋愛小説として読むと物足りない。本当の主人公は都市東京と考えるべきなのだろう。
本作品は、東京の時間と空間の変化・差異を重要なテーマにしている。主人公は青山に生まれ、現在松濤住まいで、「山の手育ち」を自認する。彼と下町の人間、下町という空間との間のズレが物語の大きな眼目となっている。現代の東京においては、過去に濃密に感じられた山の手と下町の違い、大げさに言えば地域性の垣根が低くなり、違いが見えにくくなっている。小林さんはこのことに意識的で、こうした違いが強く存在していたことを、小説というかたちで残し伝えていこうと意図していることがわかる。
小林さんのエッセイなど他の文章、小説、あるいはこれとは別に、矢野誠一さんのエッセイなどでも、昭和戦前期における山の手と下町の差異の大きさについて語られる。本書を読んでよくわかったが、この違いは、私の郷里山形県にたとえれば、山形市を中心とした内陸地方と、酒田市鶴岡市を中心とした庄内地方の違いのようなものと言えるのではないか。
庄内地方は、海路により上方文化の影響が色濃い。当然内陸と方言は異なるし、また、山形名物「芋煮」の作り方にしても、内陸は牛肉・醤油味に対し、庄内は豚肉・味噌味である。お雑煮もたしか庄内は丸餅のはずだ(内陸は角餅)。
東京における山の手と下町も、かつてはそのくらい文化的に、あるいは住む人びとの意識のなかで隔たりがあったらしい。小林さんは、下町育ちの登場人物の口を借り、意識の隔たりをこう表現する。
あなたは当時の山の手と下町の距離感を知らないから……。いいですか。約四十年前、青山は深川とは別世界でした。たしかに都電を乗り継げば、行くことは行けるのですが、私なんざ赤坂へ行くのでさえ気が重かった。できれば、隅田川の向こうへ行きたくないんです。(223頁)
この二つの地域の違いの微妙なところは、たぶん現代においてもなくなってはいないのだろう。主人公が初めて地下鉄木場駅で降りたとき、「狭いプラットホームやエレベーターが明らかに〈ちがう〉」ことで「知らない土地にきたと感じ」たとある。言葉ではなかなか表現しにくい感覚的な違和感がたしかに存在する。そうしたことを書きとどめておこうという意識に強く惹かれる。
主人公は都のPR誌『美しい東京』に町歩きの文章を連載している。『美しい東京』とは明らかに『東京人』をモデルにしていることがわかる。『東京人』編集者だった坪内さんは小林さんの大の愛読者であり、『東京人』に何か書いてもらいたいと思うものの、でもこの雑誌には批判的に違いない小林さんの心情を忖度するといった、いかにも坪内的シャイな経験を解説で告白しており面白い。
「文庫版のためのあとがき」によれば、本書は『ドリーム・ハウス』『怪物がめざめる夜』とあわせ〈東京三部作〉として構想されたという。『怪物がめざめる夜』は既読なので(→2003/9/4条)、こうなると残りの『ドリーム・ハウス』も読まねばなるまいなと思う。

*1:このうち『イエスタデイ・ワンス・モア』、同part2だけは、帯付の安い文庫本を見つけたので買っておいた。

*2:ISBN:4101158347