座敷牢の文化小史

獄門島

先日触れた内田青蔵『「間取り」で楽しむ住宅読本』*1光文社新書)の第2章「誰もいなくなった部屋」は、住宅の間取りにおける居間・茶の間の変遷から、近代日本における「家族団欒」のあり方の推移を見通す刺激的な考察である。
ただ私は、本章の次の一節を目にして、妙な連想を浮かべてしまった。

伝統的な住まいでは、家族の生活の場は二の次で、一番大切な行為は接客であり、それゆえ、接客の場としての応接間や客間(座敷)と称される部屋がもっとも重視され、また、もっとも贅を尽くしてつくられていた。(60頁)
「伝統的な住まい」においては、応接間・客間(座敷)がもっとも格の高い部屋として位置づけられていたというわけである。私はこのうちの「座敷」という語からなぜか「座敷牢」を連想したのだった。
暗くてジメジメしたイメージを座敷牢に持っていたけれど、「座敷」という格の高い語が含まれていることから、ここに入る人間に対する敬意が込められているのではないか。すなわち「座敷牢」に入るにも「格」があるということである。
日本国語大辞典』第二版には、次のように説明されている。
座敷を格子などで厳重に仕切って狂人や放蕩息子などを押しこめて置くところ。また、そこに監禁する私刑のこと。座敷牢屋。
座敷牢」という言葉は『日葡辞書』にも見える(Zaxiqiro)らしいので、戦国時代〜江戸時代にはすでにこのような空間があったわけである*2。入れられる人間のうち、狂人はともかく、放蕩息子というのが面白い。座敷牢に入れて軟禁せねばならぬほど、体面が大事ということか。体面を大切にする家=座敷牢を拵えられるほどの余裕のある家=大家と言えようか。
ところで「座敷牢」という言葉を聞いて真っ先に思い出すのは、横溝正史の最高傑作『獄門島*3(角川文庫)である。獄門島を牛耳る名家本鬼頭家の老主人嘉右衛門の息子で、本来であれば跡取りになるべき人物鬼頭与三松が座敷牢に入れられている。与三松は狂人である。
座敷牢、――と、こういうことばから、耕助がなにか陰惨な風景でも予期していたとしたら、かれは失望しなければならなかっただろう。もちろん座敷いっぱいに太い格子がはまっており、そのこと自身が陰惨であることはいなめないが、座敷のなかは思ったよりもはるかに小ザッパリとしており、通風採光とも申し分がない。広さも十畳ぐらいはたっぷりあり、床の間もあるし床脇のちがい棚も気がきいている。つまり廊下をへだてる格子さえなかったら、ふつうの――と、いうよりもむしろぜいたくな座敷であった。おまけに、板戸をひらけばその向こうに、便所や洗面所もついているらしく、座敷牢としてはおそらく最上のものであろう。(152-53頁)
角川映画の暗鬱な座敷牢の映像(もっとも本当に暗鬱だったか記憶が定かではない。少なくとも先日観た片岡千恵蔵金田一の「獄門島」は暗かった。)が頭にあったけれど、この部分を読み直してみると、鬼頭家の場合「牢」というより「座敷」に重点が置かれた造り、入る人物に敬意を表した造りになっていると言える。先の内田さんによる応接間・客間の説明とぴったり一致するので驚く。
いまひとつ「座敷牢」で澁澤龍彦の伯父のエピソードを思い出す。澁澤本家の血筋を引く澁澤龍彦の実家は、埼玉県深谷市の血洗島にあり、二階で自転車が乗れるほど広い家だったという。
また離れの奥座敷には、一時期、頭のおかしくなった私の伯父が、そこに住んで病を養っていたこともあった。(「家」、朝日文庫『玩物草紙』*4所収)
この場合は座敷牢ですらない。まったくの私の記憶違いだった。ただやはり精神分裂病の血縁者が「離れの奥座敷」に住まっていたわけだ。
前近代社会においては、狐憑きの家系と噂されるのを恐れ、こうした人びとを外に出さず、家のなかに幽閉しなければならない。ただ血縁者であり、極端な場合は戸主がそうなることもないわけではない。そこで幽閉する部屋を格の高い「座敷」とすることで待遇を考えた。かくして生まれたのが「座敷牢」なのかもしれない。
これがヨーロッパの場合どうなるのか、また、江戸時代、放蕩大名などを家臣たちが相談して強制的に隠居させてしまう「主君押し込め」の慣行とどのようにつながるのか、そこまではいまのところ考えが及ばない。

*1:ISBN:4334032893

*2:江戸時代成立の軍記「甲陽軍鑑」には、武田信玄の長子義信が入れられていたとあるようだ。

*3:ISBN:4041304032

*4:ISBN:4022640197