螺旋のように流れる時間

せきれい

庄野潤三さんの文庫新刊『せきれい』*1(文春文庫)を読み終えた。庄野さんの本を読むのは初めて。はまってしまった。
これまで、書友の皆さんの感想をはじめ、田辺聖子さんによる帝塚山(庄野一族ゆかりの地)歩きの記(『ほっこりぽくぽく上方さんぽ』*2文春文庫)、川本三郎さんの庄野潤三論(「郊外に憩いあり―庄野潤三論」、新潮社『郊外の文学誌』*3所収)、坪内祐三さんによる新刊書評(「庄野潤三『庭のつるばら』」、文藝春秋『文庫本福袋』*4所収)と、庄野文学に近づくきっかけがたくさんあった。たとえがうまくないけれど、あたかも花粉症のように、これまで体内に「庄野潤三」という名前が徐々に蓄積されてきて、今回の『せきれい』文庫化がきっかけで許容量がいっぱいになり発症してしまったかのようである。
川本さんは、近年庄野さんが発表している一連の長篇について、「郊外に住む小市民一家の日々の幸福を綴った家庭小説」(278頁)とする。もっともその直後に付け加えているように、「それだけではおさまり切れない深い味わいがある」のだ。
老境に入った老夫婦の日々の生活が淡々と記されてゆく。花々に囲まれ、近所の人びととの心温まる交流、近くに住む子供たち一家、孫との触れ合い、こんな作品世界、こんな人間の暮らしがあるのかという新鮮な驚きだった。
日々の暮らしをそのまま綴ってゆくから、日記のようでもあるが、単純に日記とも言えない。日付がなく、一日一日に起きたことをたんに羅列してゆくというものではないからだ。日々の出来事を細切れにして、ときおり少し前の出来事に遡り、それらを織り込みながら進行するから、日々の切れ目を感じさせない。でも、確実に時間が経ち、季節が変わってゆくのがわかる。時間の流れが直線的でなく、螺旋状なのだ。
と、読みながらこんなことを考え、読後川本さんの庄野論を読み返していたら、すでに川本さんが同じことを書いていたことに気づいた。

そもそもこれは小説なのか、あるいは、日記、それとも随筆なのか。融通無碍のそのスタイルは、従来の小説の型にまったくとらわれていない。事件らしい事件は起らず、ただ家族の日常が淡々と描かれてゆく。一日が断片としてあらわれ、また断片として消えてゆく。時間の流れは、何か大きな目標に向かって行くという直線の流れではなく、ゆっくりと円を描いている。(278頁)
生きてゆくうえで当然起こるべき摩擦、煩わしい人間関係や現代社会の中で生じないはずがないストレスが、小説のなかにまったくあらわれない。あらゆる登場人物、あらゆる出来事、すべてが喜びに満ち、楽しさにあふれる。心地よすぎて、「これでいいのか?」という疑問が頭をよぎらないわけでもない。
家族の幸福しか書かない庄野文学だが、川本さんはこのなかに鋭く庄野さんの小説に対する問題意識を読み取る。
庄野潤三は、この家族の幸福な姿を、思い切っていってしまえば、「臆面もなく」書く。幸福な家族とは縁遠い人間から見れば、それは「家族ののろけ話」である。にもかかわらず、それがそうは見えないところに、庄野文学の面白さ、奥の深さがある。ここには、「家庭の幸福」を描こうという、庄野潤三の作家としての決然たる意志が感じられるからだ。(282頁)
同感。食べ物を食べて「おいしいね」と夫婦二人でたたえあったり、夜にハーモニカを吹いて歌いあい、踊りあってふざけたり、綺麗な花を庭に植えて「きれいだね」と言いあったり…。こんな「のろけ話」を読んでいるのだが、押しつけがましくない。読んでいるこちらまでこの家族の温かみに触れる心持ちがする。
けれど、ちょっと意地悪に、目を皿にして本書から庄野さんの「ストレス」とも言える記述をあえて探し出してみる。するとそれは、庭に来る四十雀メジロのために吊している牛肉の脂身を野良猫に食べられ、「口惜しいが、仕方ない」(190頁)と漏らしたり、上野公園を歩いていたら、ハンチングに鳩の糞を落とされ「がっかり」(333頁)したり、そんな程度。社会や人間に対する文句はひと言も発しない。たしかにこれはある意味強靱な精神がないとできない。
本書を読んでいると、家でケーキを焼いたり、頂き物をしたさいには、かならず近所の人や子供たちに「おすそわけ」としてプレゼントする習慣が強く印象に刻まれる。老夫婦二人きりではとても消費しきれないという現実的な問題はあるだろう。でも、事はそんな簡単ではない。濃密な人間関係に支えられた贈与互酬の習慣が隣人や知人らとの間で強固に取り結ばれていることを思い知るのである。
モノを贈り、贈られるという行為のみで他者と結ばれるのではない。川本さんも指摘しているが、贈られたモノに対し、モノで返礼する前に、かならず電話や手紙で礼を言う。おすそわけをいただくと、食べてすぐ電話で「おいしかった」と返礼する。お昼ご飯をおすそわけするのでも、あらかじめ相手に電話で昼食をすませたかどうか訊ねてから相手のもとに出向く。
贈答のエチケットとして当然と言われるとそれまでだが、モノを贈られても、電話で礼を言うことを面倒がってモノの返礼で済ませてしまったり、過分な頂き物があって、家族で消費しきれないとわかっていながらも、指をくわえて腐るまでそのままにしてしまう。そんな日常態度の反省を迫られる。
お正月や誕生日には子供や孫が一堂に会し盛大にパーティを開く。お正月の場合、お開きの頃合いになると、「一同居間で輪になって、手締めをして、めでたくおひらきにする」(167頁)。たとえ夫婦親子の間柄であっても礼儀をわきまえる。当たり前だけれどそんな家族の結びつき方に強く惹かれた。
老夫婦の生活とは離れた部分で印象に残るのは、庄野さんの親友小沼丹の死である。訃報に接した庄野さんは、「妻としばらく小沼のことを話してから、二人で小沼の冥福を祈って手を合せる」(88頁)。そして夜のハーモニカの時間には、小沼が好きだったという曲を吹いて悼む。後日、小沼ともよく通った料亭でささやかな追悼会を催す。写真を持参し、テーブルに立て、コップにビールを注いでお供えしてから献盃する。しばらく故人の話に花を咲かせていると、いつの間にかお供えしていたビールが減っていたというエピソードが微笑ましい。本書には、こんな故人への懐旧の情に満ちた思い出話がところどころに挟まれている。
坪内さんは庄野さんの一連の長篇小説を評して、「循環コードのように書きつづけている。淡々としていながら(いや、淡々としているからこそ)、それは異様な迫力がある」(『文庫本福袋』325頁)と書く。循環コードだからこそ、そしてそれが異様な迫力をもっているからなおさら、一度はまると夢中にさせる中毒性があると言える。いまこのシリーズの別の作品を読みたくてウズウズしている。