小説による主張

怪物がめざめる夜

ホラー系の映画はあまり得意でないから観ないようにしている。ホラー小説となるともとより読まないほうなので、大丈夫かどうかわからない。むしろ小説で言えば、心理的ホラーが恐い。恐いけれどつい読んでしまう。
小林信彦さんの長篇『怪物がめざめる夜』*1新潮文庫)は、まさにそうした心理的ホラーと呼べるもので、読んでいて結末が近づくにつれて息苦しくなってきた。
本作品はラジオ局(ラジオというメディア)を主な舞台にしている。ラジオの放送作家である主人公の矢部は、より自由な立場で辛口の批評を公にできるようにするため、仲間たちと共同で「ミスターJ」なる架空の人物を作りあげ、雑誌のコラムのなかで自在な政治批評、マスコミ批評を展開させる。このコラムが話題になり、マスコミは謎の人物「ミスターJ」は誰なのかという点に関心を向けはじめた。
そこで矢部は第二の手を打つ。北海道でくすぶっていた神保登というコメディアンを見いだし、彼を教育して「ミスターJ」の分身たらしめ、ラジオに登場させるのである。またたくまにレギュラー番組を獲得して深夜に聴いている若者のリスナーの心をつかんだ神保は、矢部たちに背中を向け、ひとり歩きし始める。
このあとに展開する神保と矢部たちの確執については、物語の核心になるのでここでは触れないことにする。ラジオという声だけのメディアの特性を踏まえて、マスメディアによる大衆支配と虚像の形成、物語ひとつの結末のあとに成立した「都市伝説」の流布という問題を深く抉った、批評精神に満ちあふれた小説であった。
小林信彦さんの小説(といっても、以前『ぼくたちの好きな戦争』を読んだに過ぎないが。同書の感想は、旧読前読後2003/5/28条参照)には、エッセイで書かれているような問題意識がストレートに織り込まれており、エッセイのほうを多く読んでいる読者たる私としては、「ここでもやっているのか」とにやりとさせられる部分が多い。
ただ逆に言えば、小説家小林信彦の主張は当然ながら小説というかたちで表現されるのが筋であって、エッセイなどで触れられている問題をなおざりにせず小説に表現しようとする律儀さ誠実さにはあらためて敬意を表したい。