三十代後半へのエール

カカシの夏休み

重松清さんの『カカシの夏休み』*1(文春文庫)を読み終えた。表題作のほか、「ライオン先生」「未来」というそれぞれ100頁を超える中篇三本が収録された小説集である。
このなかでは表題作「カカシの夏休み」がもっとも胸に迫るものがあった。最初の数頁を読むやいなや涙腺がゆるくなってきて、数頁読んでは本を閉じ小休止して涙腺を締め直すのだけれど、読み始めるとすぐまた涙腺がゆるくなるという繰り返しでそのまま結末を迎えてしまった。
主人公は37歳の小学校の教師。小学生の息子と娘がいる。田舎はダム工事のため水没していまはない。そのダム工事を推進した村長が彼の祖父だった。その田舎の中学校の同級生が死んだという。
証券会社をやめて職を転々としたすえにタクシーの運転手となり、家族を養うためにほとんど不眠で働いていたところ、居眠り運転で事故死したのである。事故死とはいえ、自滅、自殺ともいえる。
同級生の葬儀に、かつての仲間四人が久しぶりに顔を合わせる。みなおじさん、おばさんになっている。それぞれまったく違う人生を歩み、いろいろな悩みを抱えている。
主人公はふと田舎に「帰りたい」と思うようになる。おりもおり、空梅雨で雨が降らず、ダムの貯水率が日に日に少なくなっているという。このまま雨が降らなければ、あの景色がふたたび姿をあらわすかもしれない…。
こんな主人公の望郷の念を読んでいるうちに、わが田舎を思い出してしまった。主人公の田舎は、ダムの水がなくなると姿をあらわすかもしれない。しかし私の田舎の風景、見渡すかぎりいちめん田圃で、蔵王と月山の山並みが遠くに見える景色は、高速道路によって無惨にも寸断されてしまった。戻ってこないのである。
ノスタルジーと現実のはざまを揺れ動く心。重松さんの小説は、三十代後半という人生の折り返し点を迎えた人間の心情を見事なまでに映し出している。

三十七歳の僕の暮らしは、ふるさとの町や、そこで過ごした日々とはきれいに切り離されている。
忘れてはいないが、思い出して懐かしんだりはしない。(14頁)
バルコニーの隅に、七夕のときの笹がまだ置いてあった。(…)短冊があればあるだけ願いごとを書ける。子供の頃の僕だってそうだった。おとなになると思いだせない願いごとが、あの頃ほんとうにたくさんあったのだ。(68頁)
重松さんの文章を読むと、過去に置いてきたり、心の奥底にしまい込んだはずのある種の感情がよみがえってくるのである。
ライオン先生」「未来」も含めて、本書収録の中篇三作はいずれも「救いようがない」ほど暗いものではない。おしまいには必ず光が差し込んでくる。このことは、あるいは人によっては「甘い」とか「予定調和」といった批判を生じさせるかもしれない。
相対的に「カカシの夏休み」よりは距離を置くことができた他の二作を読んで、私の中にもそうした感情が芽生えたことは否定しない。しかし、やはり最後は励ましがなければ小説にならないのだろうと思う。三十代後半から四十代にかけての世代に属する私たちの現実を代弁するとともに、残り半分の人生への展望を開けさせるのが重松清の世界なのである。
解説の松田哲夫さんは、重松さんの作品についてこう書いている。
百年後の歴史家が、昭和から平成の時代をリアルにとらえたいと思った時、重松作品が第一級史料として珍重される可能性は高いだろう。(409頁)
たしかに「カカシの夏休み」「ライオン先生」は、バブル崩壊後のリストラが物語のなかの重要な要素のひとつとなっている。バブル崩壊後に三十代を迎えたわたしたちの少年時代に流行した仮面ライダーのカードやスーパーカー・ブームにも言及され、さらにいっそうの同世代感を煽っている。
松田さんの解説は、コメンテーターをされている「王様のブランチ」で重松清さんの『トワイライト』を取り上げたさいの、他の出演者寺脇康文さん・関根勤さん・恵俊彰さんとのやりとりが紹介されたとてもいい文章であった。皆重松ファンなのである。
いよいよ次なるは『トワイライト』か。すでにいまから涙腺がゆるみつつある。