三十代後半の未来

トワイライト

昨日の夕方最寄り駅前の新刊書店で重松清さんの『トワイライト』*1文藝春秋)を買ってきて読み始め、今日の昼には読み終えてしまった。400頁を一気に読み切る気力がまだ自分にも備わっていることを知り、嬉しかった。
昨日は読む前から涙腺がゆるみつつあると書いたけれども、重松さんのこの手の小説に対する免疫ができたためか、意外にも「カカシの夏休み」ほど目を潤ませるということはなかった。
本長篇の主人公たちは40歳を目前にしている。小学校六年生のとき担任の呼びかけで校庭にタイムカプセルを埋め、全員が40歳になったときに開けることを約束した。
ところが団地にある小学校は団地の人口減少により廃校が決まったため、急遽40歳になる前に開けることになったのだ。新聞広告で呼びかけられ集まったのはクラスの半分弱。
物語は、現実生活のなかに突如入り込んだ「過去の記憶」であり「あの頃の未来」を封じ込めたタイムカプセルに戸惑いながら集まった男女とその家族の一週間足らずの日々が描かれる。
タイムカプセルは、70年代の少年少女たちが21世紀の自分に託した希望であり、まだ見ぬ未来に対する憧れが封じ込められていた。そして開封をひかえた主人公たちは人生の折り返し点を迎え、家庭や仕事に悩みを抱えながらその先の未来が想像できなくなっている。ここでもリストラはキーワードになっている。
主人公たちは、「のび太」や「ジャイアン」といった『ドラえもん』のニックネームで互いを呼び合う。70年代の少年少女にとって、『ドラえもん』は輝かしい未来の象徴であったのだ。
21世紀に40歳を迎えようとする彼らは、その世界が実現しないことを知りつつ、なおも信じようとする。

みんな『どこでもドア』が欲しくて、それが手に入らないことも知っていて、だからときどき「どこか遠くに行きたいなあ」とつぶやいてしまうのだろう。(228頁)
彼らのクラスにわずか数ヶ月しかいなかった級友(しかし彼は重い肝炎を患って開封に立ち会うことができなかった)が、未来の自分へ向けたタイムカプセルを埋めようと発案する。醒めた態度で積極的になれない主人公たち。この二度目のタイムカプセルこそ、折り返し点を迎えた三十代後半の人間たちにとっての未来なのである。
未来は子供たちだけにあるものではない。そんな当たり前のことを教えてくれた一作であった。