スクリーンかDVDか

本音を申せば

小林信彦さんの『週刊文春』連載コラムの2004年分をまとめた新刊『本音を申せば』*1文藝春秋)を読み終えた。
このクロニクル・エッセイも7冊目で、わたしは1冊目の『人生は五十一から』が文春文庫に入り、4冊目の『物情騒然。』が単行本新刊で出た年(2002年)からの読者となった。あれは3年前になるのか。早いものである。
その都度感想を書いてきたが、この連載だけでなく、小林さんの他のエッセイも読んでいるせいか、だんだん、他の本とは異なるこの本ならではの特色に的を絞った感想を書きにくくなっている。
そのなか、全体的な感触として気になったのは、記述に粘り気がなくなってきたのではないかということ。標的に向けて批判の矢を何度も放ってくるような執拗さと、共感を持って読んでいる自分たちですらのけぞってしまうような、率直にして激烈な言葉の毒が薄くなっているような気がする。
何度も書いているが、小林さんのエッセイは影響力・喚起力がいちじるしく強い。ところが今回『本音を申せば』を読んで、読みたくなった本、見たくなった映画などがあまりなかったというのも、上のように感じた理由のひとつである。
帯に「史上最高の猛暑、大型台風、大地震、大津波……「戦後最悪の一年」を書きとめる」とあり、また、小千谷に住む長女一家が中越地震に遭遇したにもかかわらず、そう感じたのはどういうことか。
深く考えると頭が痛くなるので、たんにそう感じたというだけにとどめ、そのなかでも印象に残ったエッセイをあげれば、都筑道夫の訃報を聞いてつづられた追悼文的回想「〈カルト編集者〉」や、一連の戦中の生活に触れた文章、なかでも「よみがえる3・10の記憶」あたりだろうか。とりわけ戦時中の暮らし(疎開生活も含む)については、現在『波』に連載中の小説「東京少年」と深くつながっている。完結して単行本にまとまってから、読むのが楽しみな本だ。おおげさだが、「この本が出るまで死ねない」と思う本。
「DVDというものの功罪」という一篇では、耳の痛いこんな指摘も。

そもそも、ぼくはテープ、DVDを文明の利器の一つだとは思うが、文化ではなく、記憶装置の一つと考えているので、あんなもので〈映画を観た〉ことにはならないと思っている。
 ビデオによって、映画史は消え去り、平べったいものになる。その映画が封切られた時代のイメージも関係なくなる。
 この点にについて、「キネマ旬報」八月上旬号での双葉十三郎氏との対談で、川本三郎氏が、「ビデオの時代になってから、(映画の)時系列がめちゃめちゃになってしまって……」と語っているのは至言である。
わたしはべつに「スクリーン至上主義者」ではない。逆に映画館という空間が苦手なので、できるだけ映画館(とりわけ新作を上映する大音響の)には入りたくないという人間だ。そんなわたしだが、この主張もわからないではない。
以前成瀬巳喜男監督の「銀座化粧」を見たときにも書いたが、家ではどうしても集中力がそがれる。劇場であれば、「映画を観にきた」という明確な目的意識を持っているので好ましい。
また先日三百人劇場吉村公三郎監督の「婚期」を観て大笑いしたことを書いた。これにしても、たぶん家で一人で観ていたらこんなに声を出して笑わなかっただろう。せいぜいほくそ笑む程度。大勢の人と一緒に声を出して笑ってこそ、この映画を観た記憶、その気分が味わえるのである。
川本さんの言う「時系列」の問題については、最初は気にならないでただただひたすら旧作日本映画を観ていたが、だんだん知識がつくにつれ、この映画の制作された年代、その監督のフィルモグラフィにおける位置づけなどが気になりだしているので、これもよくわかる。やはり自分は「時系列」という「歴史」が気になる性分のようだ。