読書に倦んだときには

気まぐれ美術館

読書好きの方の多くは、何冊かの本を並行的に読んでいるのではないだろうか。私の場合基本的には自宅で読む本と電車本の二系統がある。毎日少なくとも二冊は並行して読んでいるわけである。
ところが最近は自宅本が分裂気味で、単行本と文庫・新書という二種類に枝分かれした。片方が小説であれば他方はそれ以外という棲み分けをしている。
困ったことに、そのうえに「何かに倦んだときに読む本」というカテゴリーまで作ってしまった。自分でも笑えるのは、その本を「読書に倦んだとき」にも読むということ。はなはだしい矛盾であるけれど、ある本を「何かに倦んだときに読もう」と心に決めていれば、案外読書に倦んでも本は読めるものである。
最近何かに倦むという暇がなかった(これも表現が変か)せいもあって、なかなかこのカテゴリーでの読書が進まなかったが、このほどようやく読み終えた。洲之内徹さんの『気まぐれ美術館』*1新潮文庫)である。
この本や著者の洲之内徹さんについては、すでに6/25条で書いている。また「読まずにホメる」第11回でも、海野弘さんの『東京風景史の人々』(中央公論社)を取り上げ、本書の「松本竣介の風景」に言及した。それにしても二ヶ月以上も本書を読んでいたことになるわけである。
そもそも「気まぐれ美術館」は『芸術新潮』に連載された“美術随想”である。この「美術随想」なるくくりはあらかじめ疑ってかからなければならない。本書の至るところで著者自身が告白するように、脱線につぐ脱線で、ときには美術についてほとんど触れないで終わってしまう一章もあるからだ。
美術評論であるとともに、自伝的回想であり、身辺雑記であり、紀行文でもある。こういうものを「私エッセイ」というのだろうか。この融通無碍なスタイルこそが「気まぐれ美術館」の本領なのだろう。
個人的には、松本竣介が描いた東京の風景を探索する上記「松本竣介の風景」や、過去に住んだことがあるという、いまはなき同潤会清砂通りアパートでの暮らしを回想した「深川東大工町(正・続)」などが興味深い。
肝心の美術に関する文章でいえば、こんな一節が心に残る。

いったい絵というものは、解るとか解らないとかいう前に、ひと目で、見る者に否応なく頭を下げさせるようなものがなければ絵とは言えない、というのが、私の持論である。(「正体不明」)
新潮文庫にはあと二冊、洲之内さんの著作が入っている。これらもゆっくり読もう。