都会的とは何ぞや

男性諸君

昨日、小林信彦さんの『花と爆弾―人生は五十一から』*1文藝春秋)について書いたなかで、影響を受けて読み出した本というのは、神吉拓郎さんのエッセイ集『男性諸君』*2(文春文庫)のことである。
「K君が現れた日」というお孫さんのことを書いた一章のなかに、こんなことが書いてあった。

むかし、一九七〇年一月から一年半、故神吉拓郎さんが「週刊文春」に、「男性諸君」という身辺エッセイを連載した。これが非常に面白かった記憶がある。
そのころ、神吉さんは葉山の一色に住んでいた。たまたま近くに、ぼくは夏だけの小屋を持っていたので、作中の風景がすぐにわかり、葉書を出すかなにかしたのだろう。三一書房から出た単行本「男性諸君」のあとがきには、ぼくの名前もある。
こんな面白いエッセイが、一年半で終るのは何故だろう、とぼくは思った。
いま、パラパラとページをめくると、これは高級だったかな、と、まず感じた。(中略)
神吉さんのエッセイは、「ニューヨーカー」風というか、垢抜けたものであり、いわゆるコラムではない。もっとも、そのころ、コラムなどという言葉が一般的であったかどうかも疑わしい。
当時、週刊誌のエッセイは、新時代の若者に礼儀作法を教えるといったものばかりだった。その中で、神吉さんのエッセイは都会的過ぎた。(78-79頁)
電車本を選ぼうと積読の山を物色していたとき、神吉さんの文庫本をまとめて積んでいた部分がたまたま目に入った。この文章が印象に残っていたところだったから、即電車本として読むことに決めたのである。
主題に入る前に、上記引用文中の問題を解決しておこう。元版あとがきに小林さんの名前があった経緯についてである。今回読んだ文庫版には元版あとがき未収録のため確認できないけれど、名前が登場した原因は判明した。小林さんが回想するような、同じ葉山住まいで風景がわかり葉書を出したどころではないのである。
「缶詰の男」という文章のなかで神吉さんがマルクス兄弟のギャグを説明しているのだが、その次の「脱線の巻」の冒頭で、中原弓彦さん(つまり小林さん)から葉書が来て、ギャグの訂正をされたというのである。この頃から小林さんはギャグにうるさかったのであり、あとがきに名前が載ったのもこのためだろう。
さて、気になるのはこのエッセイの「都会的」なる評価である。面白いか面白くないかということでいえば断然面白かった。あっという間に読み終えてしまったのがその最大の証拠である。
前記小林さんの引用文中にもあるように、このエッセイは1970年から71年にかけて連載されたもので、71年12月に三一書房から刊行、文庫に収められたのは間が開いて85年のことであった。神吉さんは1928年生まれだから、連載当時40歳を多少超えた程度、現在の私の年齢とそう離れていないことに愕然とする。年齢と経験を重ねた「おとな」が書いた文章というイメージだからだ。しかも30年経った現在読んでもまったく古びていない。晩年の神吉さん(94年に66歳で亡くなっている)が書いたと言っても通用するのではないか。私が受けた印象は「高級だった」という小林さんの表現に通じているものと思われる。
いっぽうで小林さんは「都会的」とする。また解説の矢野誠一さん(二人はのち「東京やなぎ句会」の仲間となる)もこのエッセイを評して「都会生活者ならではのエスプリ」「都会人ならではの含羞にみちた、洒脱で達意の文章」と書いている。「エスプリ」「含羞」というあたりがキーワードになりそうだが、私にとってはそのニュアンスがうまく理解できない。
戸板康二さんの文章もまた都会的と評されることが多く、よくわからぬまま不用意に使ってしまうことがあり反省しなければならないのだけれども、具体的に「都会的な文章」というのはどんなものを指すのだろうか。読む人間が都会育ちでないからなかなかすんなり理解できない。
ひとまず戸板さんや神吉さんの文章を指標として、都会的文章の雰囲気をそうでない文章と見分けるようにすることが必要なのだろう。ちなみに神吉さんは麻布で生まれ育った山の手の子である。
これは都会的ということとは無関係だが、洒落た言い回しが印象に残った。横道にそれた話を終わらせるとき、「話が引込線に入ったが、ここが終点である」としたり、本題に戻そうとするとき、閑話休題のかわりに「ここらで馬の首を立て直さなければならない」と言ったりする表現は、いつか使ってみたい素敵な言い回しである。
また、アップダイクの作品を次のように評する。
アップダイクという作家は、実に吝嗇で、短篇を書くときなんか、いいところをほんの小出しにしか使わない。ダシでいえば(にんべん)の裏通りを車で走りぬけたくらいの淡さなのだ。(「パチンコの玉」)
比喩に「にんべん」を使うところなぞいかにも東京人らしく、都会的……ということではないか。