中毒になりながらも

花と爆弾

小林信彦さんの最新エッセイ集『花と爆弾―人生は五十一から』*1文藝春秋)を読み終えた。本書は『週刊文春』連載単行本の第6弾にあたる。これまでのラインナップについて、「あとがき」にある著者の整理を引用する。そのあとにある日付は、「旧読前読後」にそれぞれの本を読んでの感想を書いた日付である。

  1. 『人生は五十一から』(文春文庫)→2002/4/15条
  2. 『最良の日、最悪の日』(文春文庫)→2003/5/18条
  3. 『出会いがしらのハッピー・デイズ』(文春文庫2004年5月刊)
  4. 『物情騒然。』(文藝春秋)→2002/4/26条
  5. 『にっちもさっちも』(文藝春秋)→2003/4/30条
  6. 『花と爆弾』(本書)

これを見てもわかるように、私はこのシリーズの存在を『人生は五十一から』文庫化で知って一気にはまった。前の年の連載分が単行本にまとめられるのと、三作前の作品の文庫化がちょうど4月・5月のこの時期にあたり、新作の単行本・文庫本いずれも購入してほどなく読み終えている。最新作たる本書を読み終え、残すはまもなく発売される『出会いがしらのハッピー・デイズ』一冊のみとなった。
これまでの分を読んできた眼で本書を読むと、いろいろな(でもたぶんほんの些細な)変化に気づく。あくまで漠然たる印象にすぎないのだが、時評的な文章が少なくなったような気がする。とはいえ相変わらず激烈な小泉内閣・米ブッシュ政権批判を展開しており、姿勢は一貫している。時評的な内容のものは、少し前に出た『定年なし、打つ手なし』朝日新聞社、感想は4/24条)所収の文章で書かれたからだろうか。
小泉・ブッシュ批判ということで気になるのは、現在も続いている連載(通しタイトルが「本音を申せば」と改題されたそうだ)のなかで、最近の一連の人質騒動について、小林さんがどのような考えをもっているのだろうかということだ(中野翠さんの見解も気になるところ)。週刊誌を実際に見ればいいのだが、まあこれは来年単行本にまとまったときのお楽しみにしよう。
気づいた変化の二点目として、特権意識と言ったらいいのか、大雑把に言えば「俺は本物を見ているんだ。実際に体験したんだ。そうじゃないお前たちとは違うんだ」というような主張が以前より強く打ち出されているのではないかということ。
小林信彦ファンの方にとっては、こんな姿勢は当たり前じゃないかと思われるかもしれない。たしかに以前からそういう言説は諸所に散見されたが、私にとっては本書ほどそれが強く印象に残った(言い換えれば「少し鼻についた」)ことがなかったのである。あるいはこうした主張を読んで小林信彦に嫌悪感を抱く人も多いのではなかろうか。
戦争体験ならばまだしも(今回のイラク戦争日中戦争と似ているという鋭い指摘がなされる)、たとえば森繁久彌を讃えた「森繁久彌・卒寿記念2」のなかで、こう書く。

要するに、「夫婦善哉」における森繁久彌の変身にリアルタイムで驚愕した者だけが、演技者・森繁のすごみを語り得る、という一事である。(106頁)
原文では「変身」「だけが」「すごみ」に傍点が付されている。「変身」の傍点はすなわち、「変身」以前の森繁も知っていないとわからないということであり、さらに「だけが」で追い打ちをかけて対象者を絞り込み、「すごみ」という実感的な言葉でそれを知らない人間に決定的な差をつける。嫌悪感とはまでは言わないが、あとに生まれた人間にそんなことを言われたら身も蓋もないなあと思ってしまうのである。本書にはこうした物言いが目についた。
「役者を語るなら生の舞台を観てからにしろ」(224頁)という主張も肯けるが、やはりこれは東京人の特権意識で反感を買うに違いない。とはいえ、こうした小林さんの考え方は、小林さん独自のものではなく、先人から受け継がれてきたものらしいことも知る。
上記「生の舞台を観てから」という言葉は、エノケンの舞台を回想しながら伊東史朗の舞台を語った文中(「伊東家のご馳走」)に登場するが、この同じ文章のなかで、エノケン晩年の舞台を観て大笑いしたことに対し、年長者から「叱られた」という昔話を披露している。この年長者は昭和初年の浅草のエノケンの舞台をかたっぱしから観ており、「あんなひどい芝居を観て、エノケンを語っちゃいけない」と言われたという。
「叱られた」のニュアンスがうまく伝わらないけれど、小林さんはこれを聞いて「一瞬ポカンとした」と書くように、座をしらけさせるような語調だったのだろう。先に引用した森繁論もこれと同じであって、好意的に解釈すれば小林さんは、こうした東京人的言説を意図的に(むろん本心からだろうが)使って世の中に抵抗しているのかもしれない。
ひるがえって、わたしたちが30年から40年後、某年長者や小林さんのように若い人間をたしなめるような嫌味を言えるようなものを観ているのかどうか、暗澹たる気持ちになる。その意味では小林さんは幸せだ。
ところで小林さんの文章には麻薬性がある(影響力が強い)と以前も書いたが、本書も同じだ。いま本書の影響で読み始めた本がある。これについては読後に書くとして、別に、最後のほうにある久保田万太郎論を読んだら、無性に久保田万太郎を読みたくなってしまったのだった。
それは「二の酉のあと」という文章で、二の酉の日、新宿花園神社で切山椒を買ったという話から切山椒とは何ぞやという説明になり、話柄はおもむろに久保田万太郎に移る。全集を持っているのに句集しか読んだことがなく、「句はもう、すごいの一語に尽きる」というのも納得。また、三島の万太郎追悼文を引用して同感であるとする。
三島は万太郎の〈演劇〉ボス、その他の俗物的仕事は「みんな影にすぎず、すぐ忘れられてしまふのだ」として、
そこには何が残るか。氏の肉筆の、ごく小さな、かそけき書体と、断簡零墨の果てにいたるまで、みごとに操を保つた特定の洗煉されたスタイルと、その一貫した抒情詩人としての面目だけである。後代の読者は氏を、市井に隠れた、孤独で繊細な、すんなりした姿態の、心やさしい静かな抒情詩人としてしか思ひ描かぬに違いない。(245頁)
と書いたという。孫引きしながら、この三島のたたみかけるような讃辞は裏返しの嫌味と受け取られぬこともないなとは思ったけれども、小林さんが「三島のこの予言は、四十年後に実現した」と書くように、実際私も万太郎作品を「心やさしい静かな抒情詩人」というイメージで読んでいるのだから、予言的中というべきなのだろう。このあと万太郎の短篇「三の酉」が紹介されており、読みたくなってきたのであった。付け加えて言えば、上の三島の文章もまた何とも味わい深く、三島も読みたくなってしまった。