気まぐれなるがゆえに

帰りたい風景

洲之内徹さんの『帰りたい風景―気まぐれ美術館』*1新潮文庫)を読み終えた。本書は「気まぐれ美術館」シリーズの第2集にあたる。第1集の『気まぐれ美術館』*2新潮文庫、感想は旧読前読後2003/9/3条)に拍車をかける「気まぐれ」「寄り道」ぶりのエッセイを堪能した。こういうエッセイはたまらなく好きだ。
画廊主の著者、『芸術新潮』連載、そして毎回画家や絵に言及されているということから、このシリーズは「美術随想」と呼ばれている。たしかにそれは間違いないのだけれど、そう名づけられてしまったために本書に伸ばしかけていた手を引っ込めてしまった人も多いのではないかと心配する。実際つい最近までの私がそうだったから。
言ってしまえばこのシリーズは、“絵や画家のことが話題に出る私エッセイ”なのだ。最近元版を集めだしたからわかったのだが、元版の目次には、それぞれの文章のタイトルの次にポイントを落として副題のように画家の名前が入っている。ひとつひとつの文章がそこに名前の出ている画家を取り上げ論じていると思わせるのである。むろんそこに名前の出ている画家が取り上げられていることに相違ないが、紙幅という点からいえばメインとは言えないことが多い。
これに比して文庫版はその副題の部分がすべて取り去られ、メインタイトルのみが目次に出ている。瑣末なことだがこちらのほうが内容にふさわしいような気がする。
主題にたどりつくまでに回り道せねば気がすまない気まぐれぶりは、洲之内さんの本質なのだろう。

私は何か書き始めるつもりで原稿用紙に向って坐ると、とたんに、書こうと思ったこととは全く関係のないことを考えだしてしまい、そのために、書こうと思っていたことがどこかへ行ってしまうということがよくある。(「続 海辺の墓」)
上記の習性の具体例が本書中にある。「羊について」という文章は、「今年は私は死ぬかもしれない、と私は思ったりする」という一文で始まり、死生観の告白、死ぬまでに読もうと思っている本の話、むかし収監されていた刑務所で読んだ本の話、松本竣介の気張った文章が嫌いなこと、靉光の自画像の素晴らしさと転々と話が飛んだすえ、一行あけてようやく本題に戻る意志が示される。
「羊について」という題で書き出したからには、早く羊を出さなければと思いながら、羊の代りに靉光が出てきたりしまったが、なぜこうなったかというと、私は今年は羊の歳だから羊のことを書こうと思い、「今年は」と書いたとたんに、「死ぬかもしれない」という方へ話がいってしまったのである。(376頁)
こんな感じのうつろう文章に対して、「絵の話はどうなっているんだ」と青筋立てて怒るのは愚かしい。とことん付き合ってやろうではないかと受け身の姿勢になるのである。
久しぶりのドライブで日本海を眺めていたら急に便意をもよおし、ススキの中にかがんで用を足した(つまり野糞をした)話を開陳し(「三年目の車」)、帝銀事件で冤罪を訴えた平沢貞通にくどくどと嫌悪感を表明する(「悪について」)。
あるいは漱石坊っちゃん』に登場するゴルキという魚は実はギゾであると主張して漱石の創作上の“遊び”を指摘したり(「ゴルキという魚」)、郷里松山の町や愛媛県立美術館を酷評してみたり(「一枚の絵」)、65歳になって自治体から給付された銭湯の共通入浴券を手に都内の銭湯を入り歩いた記録を綴ったり(「共通入浴券」)、そんなこんなの脱線がすべて愉快である。
もちろんそんな気まぐれ、脱線にかまけているばかりではない。気まぐれな文章の合間合間に絵や芸術をめぐる鋭い洞察がはさみこまれ、その都度ハッとさせられるのだから、ますます読むのが止まらなくなる。これこそ「美術随想」たる「気まぐれ美術館」シリーズの真骨頂なり。
互いに貧窮の画家で兄弟分だったという横井弘三と長谷川利行をくらべ、
同じように窮迫し、同じように社会的な落伍者となっても、一方はメルヘンの世界に遊んで現実を忘れ、一方は、愛するが故に逃れようのないその現実と斬り結んで斬り死をした。しかし、だからこそ長谷川利行には、今日もなお、私たちの胸の底から切実な感動を呼び出すほんもののポエジーがあるのだ。(「脱線の画家」)
長谷川利行を讃える。
また写真と絵を比較して、ある画家が絵は写真に敵わないと言ったことに対し、
画家の眼は自然をいっぺんに見るのではない、あなたは一本の線を引く瞬間ごとに、あなたの眼と手できびしい選択をしているのだ、絵を描くというのはそういうことで、そこに絵と写真の違いがある、(「同行二人」)
と諭した言葉は絵を描くといういとなみの本質をついているのではないか。
これは洲之内さん自身の言葉ではないかもしれないが、深く印象に刻まれたのは、次の松本竣介を論じた一節だ。竣介は聴覚に障害をもっていた。
ところで、松本竣介のあの音を消し去ったような静かさは、竣介が既に少年の頃から聴覚を失っていたからだとよく言われる。(「眼と耳と」)
もとより絵というものに音があるわけではない。したがって絵に対する評言として「音を消し去ったような静かさ」とするのは、そこに一ひねりが加えられている。美術批評の言語のなかにおいては、こうした表現手法はある程度常套なのかもしれないが、私にとって、絵の見方のひとつの方法を教えてくれた文章として、ガツンと大きな衝撃を喰らったのであった。