小沼丹のミステリ

黒いハンカチ

小沼丹『黒いハンカチ』*1創元推理文庫)を読み終えた。
小沼丹の作品をはじめて読んだのは一昨年の4月。『東京人』2001年5月号(特集「古本道」)における田村書店奥平晃一氏の発言(「私の店に来る人で小沼丹を知らない人がいたら、本なんか読まないほうがいいと思うくらいです」)がきっかけだった。前に買ってそのまま書棚に収めたままだったエッセイ集『小さな手袋』*2講談社文芸文庫)を読んで、好きな作家の仲間入りをしたのである(旧読前読後2001/4/7条参照)。
以下一昨年に書いたことの繰り返しになるが、そもそも小沼丹という名前を知ったのは坪内祐三さんの『シブい本』*3だった。また巻末の年譜を見ると江戸川乱歩の慫慂で『宝石』に小説を執筆し、また推理連作短篇集『黒いハンカチ』を出していることを知った。
小沼さんの本を読み、その世界にますます惹かれるにつれて、『黒いハンカチ』を読みたいという思いがつのった。小沼さんの本は全体的に入手が難しい。とりわけ『黒いハンカチ』はネットでもほとんど見かけない。切歯扼腕するだけだった。
そんな状態に一筋の光明がさした。北村薫さんの『謎のギャラリー ―名作博 本館―』*4新潮文庫)のなかに、『黒いハンカチ』が創元推理文庫で出る予定であることが記され、また上掲書をもとに編まれたアンソロジーのなかに、『黒いハンカチ』から2篇採録されたのである。いつ出るのか見当がつかないものの、出るまで我慢してアンソロジーに入る2篇は読むまいと決意した。
それからほぼ1年半、『黒いハンカチ』の存在を知って2年数ヶ月、待ちに待った文庫化である。帯にはちゃっかりと上述の本での北村さんの文章が引用されている。
では私は読んでどう思ったのか。
『小さな手袋』『懐中時計』といった身辺に取材した私小説的世界をユーモアで包んだ作風に親しんだ者にとっては、『黒いハンカチ』がその世界から乖離していることに戸惑いながら、その戸惑いを払拭できぬまま読み終えた、そんな感じだろうか。期待が大きすぎたゆえに読んだときの実感との落差を埋められなかったことを正直に告白する。
むろん駄作と切って捨てることはしない。また『懐中時計』などのいわゆる「大寺さん物」とまったく共通性がないとは言わない。ユーモアと、作中人物間に行なわれる会話のやりとりに漂う香気は一級品である。
高台に建つ「クリイム色の壁に赤い屋根を載せた二階建の建物」A女学院の英語教師ニシ・アズマが主人公。小柄で愛嬌のある彼女の身の回りに事件が起こると、いつのまにか彼女の顔には、愛嬌を殺してしまう太い赤縁のロイド眼鏡がかけられて、彼女の勘と推理によって謎が解決する。
謎自体は込み入ったものではない。ときおり殺人も混ざるが、盗難事件が多い。したがって本書は不可能興味のごとき謎を解く妙を味わうものではない。物語の雰囲気と、道具立てと、謎が発生して解決するまでのニシ・アズマの変身ぶりを楽しめばいいのである。
ところが小沼さんは、ニシ・アズマが赤い眼鏡をかけて変身するという場面の魅力をすっかり忘れてしまったのだろうか、後半の諸篇になるとこのシーンが登場しなくなる。これでは魅力半減になってしまうのが残念。
物語として面白かったのは、「靴」の一篇。舞台設定で興味深いのは山手線目白駅(作中ではM駅)が舞台とおぼしき「スクェア・ダンス」と、本郷のT大医学部の裏通りを舞台にした「犬」の2篇。「犬」の作中に描かれた(作品の発表年次は1958年)T大医学部の裏通り(無縁坂の上の方)の情景がいまとほとんど変わっていないことに驚いた。
小沼ファンであれば、「大寺さん物」とはまったく違った彼の作風を楽しむという楽しみ方がある。ただ、この『黒いハンカチ』を読んで他の小沼作品も読んでみたいという人が出てくるかどうかは微妙なところである。
とまれ、こうした作品が文庫に入ったということを素直に喜ぶことにしよう。