読んで釣銭が来る

日本語と私

大野晋さんの自伝『日本語と私』*1新潮文庫)は太閤記の現代版である。そんな突飛なひと言で始めたい。
日本語・タミル語起源説で学界を騒然とさせ、また最近では丸谷才一さんの『輝く日の宮』(講談社)との関連でお名前をよく聞くようになった国語学者大野晋さんは、深川の古い砂糖問屋の息子として生まれた。
明治以来の商家で、家運が傾きかかったなか、父は商売のかたわら南画や書の蒐集が趣味に没頭している。息子にとっては、父が南画の幅を掛けてしみじみと眺める姿が強く記憶された。
そうした学問とは無縁の家に生まれた大野さんが、刻苦勉励して、ときには落ちこぼれそうになりながら学問の頂点に上りつめる。ときおりこんなスポ魂的努力、お涙頂戴型の立身出世譚の切れはしが行間からちらりと顔を覗かせ、一瞬たじろいでしまう。
ただしそれは一瞬だけで、全編そういう物語であれば読み通すことができなかっただろう。大野さんの学問の道はフィクションでなく現実に棘の道だったとおぼしいのだ。
生い立ちから戦前の(大野さんは大正8年生まれ)下町での暮らし、一高・東大に進んでからの友人・先生との交流、大学教師として研究者の道を選んだあとの学問の場での苦労話を経て、近年ベストセラーになった『日本語練習帳』(岩波新書)の刊行まで、それまでの人生ほとんどがこの一冊に凝縮されている。
とりわけ面白かったのは、戦前の高校・大学といった教育の場での学生同士、先生と学生の交流についての思い出だ。いたずらをやるにしても何にしても知的なのである。
入った一高の寮は女人禁制。ただし敷地内に一人だけ女性の看護婦さんがいた。「色が浅黒く、ごついが親切な人」だった彼女を寮生たちは「ダス」(das…ドイツ語の中性名詞の定冠詞)と呼ぶ。こんな洒落っ気がいかにも戦前という雰囲気である。
大野さんは下町の小学校から開成中学に進学する。そこでの科学の試験でのエピソード。化学方程式ばかりの問題でちんぷんかんぷんだった大野少年は、答案に「大教師刮目 宜待来学期」(大教師刮目してよろしく来学期を待つべし)といった漢詩めいた文章を書いて提出した。
また一高入学後の数学の試験では、順列組み合わせの問題はわかるものの、積分はさっぱり分からず、これを解かねば及第しない。窮した大野少年は、欄外に「順列・組合わせは近来自分には愉快な分野であったが、二題しか出題されていないのは遺憾である。よって問題を補充する」と書き、自分で勝手に二題出題してその解答を加え提出する。前者は合格、後者は不合格だったという。こんな教師と学生の緊張関係が何とも愉快だ。
先生といえば、一高時代に教わった先生を回想する文章のなかで、まっさきにあげられているのが岩元禎だった。漱石の『三四郎』に登場する広田先生のモデルとして名高い厳格な哲学教師である。高橋英夫さんの『偉大なる暗闇』(講談社文芸文庫、感想は2000/11/13条)を読んで以来気になる存在だったが、ここでお目にかかるとは思わなかった。
何でも大野さんの学年は、教わっていた学年途中に岩元が亡くなったというから、まさに最後の学生、岩元禎の姿を知る最後の世代なのである。「明治時代、ヨーロッパの学問を輸入したころの、横文字を読む学者の権威に満ちた姿を見た」とふりかえっている。
学生時代の思い出とともに、研究者の道に進んでからの物語もなかなか読ませる。基礎作業を疎かにせず、それを積み上げていくこと、「見込みが正しいときには、事実のほうでその見込みの線の上に飛び込んでくる」という、これまでの研究生活の経験によって導かれた法則、学問と「運」の問題など、学問の世界に身をおく私としては、教えられる点が多い。
そのいっぽうで、戦後の国語改革問題や、国語辞典作成の苦労話、またタミル語起源説を唱えたときに受けた学界・マスコミからの誹謗中傷など、生々しくも刺激的だ。お写真の温顔とは反対に「闘う学者」としての闘志が行間から立ちのぼる。
冒頭で「太閤記」と評したのは、『広辞苑』編集のさい、短時日の間に基礎語の語釈の仕事を請け負ってそれを成し遂げた話が、いかにも秀吉の墨俣一夜城の挿話を思い出させるからである。
子供のころ、大野さんはこうした偉人伝、立身出世譚を多く読んだのに違いない。実際そのストーリーが自分の身丈にも合ってしまうのだから、文句は言えない。解説の井上ひさしさんが本書を評した言葉「読んで釣銭が来る」はまさに至言である。