鎮魂の書

更紗の絵

堀江敏幸さんの新刊書評集『振り子で言葉を探るように』*1毎日新聞社)に収められた小沼丹作品の書評を読んでいたら、猛烈に小沼さんの小説を読みたくなった。それは「幸せな不意打ち」と題された『風光る丘』評のこんなくだりである。

あちこちで笑いをとりながら、一見したところ複雑な物語が、するすると遅滞なく進行していく。発表媒体を意識してのことなのか、ほどよい謎を踏み石にした章立てと軽やかな会話の多用に引っ張られて、あっというまに終幕まで読み進めた読者は、わずかなもの悲しさを残しつつも全体としては明るい余韻を漂わせている結末以上に、短篇作家だとばかり認識していた小沼丹が、これほどの構成力と、それを十二分に生かし切るだけの余裕ある筆力をそなえていたことに、幸せな不意打ちを食らうだろう。(113頁)
風光る丘』ならわたしも読んだはずと検索したところ、2005/7/17条に感想を書いていた。しかも上に引用したのとまったくおなじ部分を引用し、「それを読んでいたら、もう、読みたくて仕方がなくなってきてしまったのだった。たとえばこんな文章を読んでいたら、もうたまらなくなる」などと書いている。歴史は繰りかえすというのか、人間変わらないというのか。そもそも約7年前の読書体験をさっぱり忘れている自分に苦笑せざるをえない。
もっとも、こういうことがわかったのはその後のこと。『振り子で言葉を探るように』にて上記の文章に遭遇したときは、直後に一泊二日の出張をひかえていたおりもおり、当の『振り子で…』も、並行して読んでいた岩波現代文庫版『わが荷風*2もいったん中断し、思い切って未読の小沼作品を携えていこうと決断したのであった。おあつらえむきにそういう本が一冊ある。1月に講談社文芸文庫に入った長篇『更紗の絵』*3だ。比較的薄めの文庫本1冊のみをふところに忍ばせるという理想的な出張読書。
この長篇は、小沼さんの若き頃を描いた自伝的作品だという。たしかに物語を読み進めながら、箸休めのように巻末の年譜をひもとくと、ほぼおなじような事跡が簡潔ながら書かれてある。登場人物の固有名詞や学校名などは仮名に置き換えられているし、語られている挿話にも虚構がまじっているのだろうけれど、わたしとしては主人公の「吉野君」をそのまま若き小沼さんの姿になぞらえて読んでいった。
独特のユーモアにつつまれ、機知に富んだ会話もまさにいつもながらの小沼作品。登場人物たち一人ひとりの姿も輪郭がはっきりしているから容易に頭に入ってくる。構成力を十二分に生かし切る余裕のある筆力とは、こういうことなのだろう。
しかしそのユーモアの底に流れているのは「哀しみ」なのだろうと思う。終戦後吉野君は、岳父が経営する学園が再開するにあたり、その中学主事として招かれる。飛行機工場跡に残された建物を買い取って始められた学校に住み込んで奮闘する吉野君と、校長の娘であり吉野君の奥さんとのあいだに交わされる会話からは、夫婦の仲の良さがにじみ出ている。いっぽうで、年譜などにより、小沼さんの奥様は小沼さん45歳のときに娘二人を遺し急逝したという事実を知っているから、ここに登場する妻がその亡妻の若き姿なのだろうということを思うと、粛然たる気持ちになるのである。
奥様が亡くなったのは1963年。物語の元になった時期は、戦後間もない1946年から50年にかけてのこととおぼしい。結婚4年目、長女が幼く、この間次女ももうけたという時期にあたる。小沼さんは二十代後半から三十を越したころ。この『更紗の絵』が雑誌に連載されたのは、1967年。奥様を喪って4年が経過したのちのことである。彼女を小説として対象化するまでにはそれだけの時間がかかったのだろうし、この作品は、若き頃の二人の生活を活字にとどめることによって、亡妻の鎮魂を祈った記念碑なのだろうという気がした。
このあたりは文庫解説の清水良典さんも触れている。
1967年から68年にかけて雑誌「解脱」に連載されていたこの『更紗の絵』は、喪ったのちに、在りし日の妻との生活を偲ぶ視線で書かれているのである。その頃の幸福も、順風満帆と見えた仕事も、二十年近くのち永遠に喪われた平安として追慕されている。無垢で美しく、生気に華やいでいる日々は、哀しみのレンズ越しに浮かんでいるのである。(255頁)
さて、出かける前にフライング気味に少し読み囓ったところ、「これは面白い…」と自分の選択が間違いでなかったことを喜び、そのまま一泊二日の大分は中津への出張に携えた。出張読書には珍しく、往復の機内読書で最後まで読み終えることができたのも、作品の魅力ゆえだろう。とともに、幕切れに登場する夫婦の姿に目が潤んだ。
帰宅後風呂に入って疲れをとったあと、さっそく『小沼丹全集』を引っぱり出し、妻の追悼文にあたる「喪章のついた感想」を読んだ(全集第四巻収録)。「喪章のついた感想」と、追悼という直接的なことばをあえて避けたタイトルがまた間接照明のようなやわらかさを感じさせるわけだが、これを読むと『更紗の絵』の味わいがいっそう増したのであった。全集は新字のため味気なかったので、正字旧かなの『福壽草』*4みすず書房)にてさらに読み直す。
人生は果敢ないものだとか、人の生命は明日も知れぬとは云ふ。さう云ふ言葉を、われわれは成程と思つて受取つてゐるけれども、実際の所は、眼前に死ぬと云ふものを見ても直ぐには納得出来ない。納得するのは、少し時間が経過して生活が今迄と違つたことに気が附くやうになつてからである。
例へば、僕は朝眼が醒めると、
――いま、何時だ?
と家内に訊く習慣が附いてゐた。何の理由も無い。ただ癖になつてゐたに過ぎない。それで一日が始る。ところが家内がゐなくなると、いま、何時だ、と訊く訳に行かない。家庭生活と云ふのは、そのやうな極めて些細な事柄が積重なつて出来上つてゐるものらしいので、家内がゐなくなると、あちこちに穴があいて、風が吹込むやうで、たいへん困るのである。(『福壽草』140頁)
湿り気をおびることを慎重に避けながらも、伴侶を喪った哀しみが痛切に伝わってくる文章だ。この一文は死別して約半年後に書かれた。
そんなことを感じて、いま一度『更紗の絵』の幕切れを読み返すと、こんな妻との場面が描かれていることにあらためて気づかされた。
和田や大井の他四、五人を連れて、近くの小料理屋へ行った。茲は松岡君や井田君と何度か来たことがある。そこにどのくらいいたのか知らない。
気が附いたら、吉野君は自分の寝床に臥ていた。もう朝らしい。
――何時だ?
と細君に訊くと、もう正午近かった。
――厭ね、と細君が云った。また病気になりますよ。
――昨夜はどうしたかなあ?
――どうしたかなあ、じゃありませんよ。(243頁)
深酒して自分の家に帰ってきたことすらおぼえがなく、翌朝起きたときに妻に訊ねたひと言。「喪章のついた感想」を読んだあとふたたび読み返すと、ますますこの作品が亡妻とのかけがえのない家庭生活を描いた鎮魂の書であったことを確認させられたのである。
吉野君が深酒をした飲み会というのは、中学主事として赴任した当初新入生として入学した連中が、高校を卒業して開いた同窓会であった。そこにはかつて同僚だった先生も招かれ、吉野君は久闊を叙す。彼らは大学生になった者もあれば、背広を着て社会人となった者もいる。家業を継いで生き生きと暮らしている者もいる。できの悪い学生たちだと思っていた彼らが、何年もしたらこんなに立派な人間になっていた。その嬉しさが、つい吉野君を心地よくさせてしまったのである。
かつての教え子との再会といえば、『二十四の瞳』を連想する。映画を観るたび泣け、その挿話を思い出すたび胸が詰まる。『二十四の瞳』は戦争をはさんだために、戦争によって教え子たちの人生も翻弄されるという悲劇が生まれた。対して『更紗の絵』のばあい、終戦直後の復興に向かって第一歩を踏みだそうという時期の教師と教え子の再会だから、まことにからりと明るい。時間を隔てた再会という意味では『二十四の瞳』も『更紗の絵』もひとしく感動をおぼえる設定ではあるが、『更紗の絵』には『二十四の瞳』にない晴れやかさがあって、それが亡妻への鎮魂という哀しさとの相乗効果によって強烈な読後感を残すのであった。