書巻の気

先日『猫』を読み終えたとき、自分にとって漱石のベストはどの作品かということを考えた。読んだ作品をあれこれと頭に浮かべたすえ、『猫』でも『坊っちゃん』でも『三四郎』『夢十夜』でもなく、やはり『こゝろ』に落ち着くのである。
ではなぜ『こゝろ』に惹かれるのか。国語の教科書に載っていた作品のなかで珍しく面白かったということや、ストーリーが劇的だという点が思い浮かぶ。でもいずれにせよ決定的な原因ではないような気がする。
辰野隆の人物回想エッセイ集『忘れ得ぬ人々』*1講談社文芸文庫)を読んでいたら、漱石を語る文章のなかにその理由らしきものをたまたま見つけ、「これだ」と膝を打った。
辰野隆安倍能成小宮豊隆と酒を飲みながら漱石寺田寅彦の思い出話に花を咲かしていたとき、安倍が『こゝろ』を評して「然しこの小説には何となくブキッシュなところがあるなあ」と言ったというのである(「漱石・乃木将軍・赤彦・茂吉」)。
辰野はこのブキッシュ(ブッキッシュ)という言葉に対し、フランス語のリヴレスク、支那の画論などに往々出てくる「書巻の気」という成語を引きあいに出して、こう書いている。

小説『こゝろ』に対する安倍氏のブキッシュという形容詞はリヴレスクと同じく、多少批難の意味を籠めた語で、実相に徹せずいまだ書斎臭の漂うのを咎める心持なのである。
たしかに私が出口裕弘さんの文章のなかで初めてこの言葉に接したときも、必ずしもいい意味で使われていなかった。あの作品(人)はブッキッシュだといえば、「書斎派」という皮肉が込められた物言いなのである。
これに対し辰野は「書巻の気」の語に力点を置き、『こゝろ』=ブキッシュ説の価値転換をはかろうとしている。
然るに「書巻の気」というと、之は必ずしも批難の意味ばかりではなく、時に褒める形容にも使われるらしい。いまだ書巻の気を脱せずと云えば貶すことになるが、書巻の気掬すべしと云えば匠気に染まぬ品格を褒めることになるのだろう。由来、書巻の気は敢えて漱石の『こゝろ』にとどまらず、漱石の他の凡ての作にまで浸み込んでいる。単に漱石のみならず鴎外の凡ての制作にも亦冠し得る形容詞であろう。
たぶん私は、『こゝろ』にたちこめる「書巻の気」に惹かれるのである。
辰野と漱石といえば有名なエピソードがある。辰野の結婚披露宴に漱石が招かれ、そこで体調を崩してそのまま死の床にふしたというのである。このおりの述懐「『明暗』の漱石」も本書に収録されている。
それによれば、漱石が宴に招かれたのは辰野の縁ではなく、新婦つまり辰野夫人の縁からだという。辰野夫人の姉が漱石の弟子だったらしい。この結婚披露宴で漱石は落花生と「小鳥の粕漬だか味噌漬だか」を食べて嘔吐し、十九日後に世を去った。
辰野自身は一高時代、直接謦咳に接しはしなかったものの、廊下で英語教師だった漱石とすれ違ったことがあると書いている。
本書は漱石はじめ露伴、寅彦、長谷川如是閑、齋藤緑雨、鈴木三重吉、茂吉、荷風ら先人の肖像を慈愛のこもったまなざしで見つめ描いたポルトレ集となっている。また先人ばかりでなく、府立一中時代の同級生谷崎潤一郎や教え子だった太宰治の回想的人物論も収められている。
戸板康二さんは、辰野のポルトレ「辰野隆の巻き舌」(『あの人この人 昭和人物誌』文春文庫所収)において、辰野の先輩に対する敬虔な態度、門人や後輩に対する包容力あふれる暖かい態度を懐かしくふりかえっている。
写真を見るととても東大仏文の先生とは思えない一見田舎のおじさん風の風貌をしている辰野だが、それゆえに気取らない文人の風格が漂っていたという。巻き舌でべらんめえ口調を話すいっぽうで、典型的な山の手育ちで「粋だとか、通だとかいわれている人にはげしい抵抗感」を持っていたというのも興味深い。
本書の最後のほうには、ポルトレだけでなく短い書斎論(書物論)三篇も収められている。そのうちの「書狼書豚」は、同僚であり友人である鈴木信太郎・山田珠樹の書痴ぶりと、対する自らの書物への執着のなさが戯画化されて描かれており、つい笑いを誘われる。