『猫』再読

小林信彦さんの『小説世界のロビンソン』*1新潮文庫)を読んで、次に何よりも読みたくなったのは漱石の『吾輩は猫である』だった。これまでも幾度か再読を志したことがあるが、読み通すだけの気力に自信がなかったこともあり、手をつけかねていた。
ところが、幸か不幸かこの週末は季節外れの台風襲来で外出をひかえざるを得ず、長めの本を集中的に読むには絶好の機会を天から与えられた格好となった。おかげでここ何年かの懸案をようやく解決でき、「本読み」にとっては充実した週末となった。
『猫』の初読もまた13年前に遡る。読み終えたのは『小説世界のロビンソン』の数ヶ月前、90年4月25日のことである。読後感としてこんなことを書いている。

漱石吾輩は猫である』読了。漸く消化し切ったという感じである。苦沙弥とその奥さん、苦沙弥と迷亭の絶妙な掛け合いに、思わず独り笑ってしまう事度々。後半になるにつれ、だんだん重くなってきている。特に、十一章の個人主義に関するところは、感心する事頻り。文明批評もなるほどと思う。私としては、前半の軽さのほうがいいが。
再読の今回も「漸く消化し切った」という疲労感は変わらない。前半の軽さがいい(とくに三〜五章あたり)というのも同じ。13年前の自分は最終第十一章の部分に関心しているけれど、現在の私はこの部分は一杯一杯になってしまった。やはり長篇を集中して読むだけの気力は衰えてきたのだろうか。
小林さんは『猫』に落語の強い影響を読み取る。いまでこそ漱石と落語の関係は当然のごとく受けとめられているが、小林さんがこの議論を展開した当時は、興津要氏などにより漱石と落語(ひいては江戸文化)の関係についての先駆的な研究がなされていただけだったらしい。小林さんの議論は、漱石と落語の関係についての認識を一般に広めた意義があるといえる(ただし、水川隆夫『漱石と落語』が86年に刊行されている)。
私が『猫』のなかで面白味を感じたのは、まさに落語の影響を強く受けた、いわゆる「くすぐり」という軽いギャグの部分なのだった。苦沙弥と妻、苦沙弥と迷亭らの間で応酬される、思わず笑いを誘われる会話の妙。
喩えの表現はたしかに注釈なしではわからないものが多いけれど、それが「くすぐり」とわかるだけまだましなのかもしれない。

*1:ISBN:/現在は光文社文庫に『面白い小説を見つけるために』と改題され入手できる。ISBN:433478285X