物語を読もう

小林信彦さんの『ぼくたちの好きな戦争』*1新潮文庫、感想は5/28条)という読み応えのある長篇を読み終えた充実感につつまれながら、本を書棚の“小林信彦コーナー”に収めようとした。『週刊文春』の連載エッセイ「人生は五十一から」の新刊、文庫新刊読みにはじまった今年の小林信彦ブームはひとまず終わりかな、と思いつつ。
ところがコーナーに並んでいる文庫本の上に横積みになった黒背の文庫本を手に取り、それをめくりだしたら止まらなくなってしまった。ブームも思わぬ延長戦に入ったことになる。その本とは『小説世界のロビンソン』*2新潮文庫)。
先日『ぼくたちの好きな戦争』について、「プランを練りに練って作り込み組み立てたような“匠の技”を感じる」と書いた。小林信彦という小説家が構築した長篇の物語に酔ったわけである。
『小説世界のロビンソン』を見たら、おしまいのほうに附章として「メイキング・オブ・「ぼくたちの好きな戦争」」という一文があるではないか。“匠の技”の秘密が書かれているに違いないと、最初から読み直すことにしたのだった。
いま「読み直す」と書いたが、この本を読むのは二度目なのだ。元版が出たのは1989年(平成元)3月。私は翌90年8月3日に購入し、一ヶ月後の9月6日に読了している。実に約13年ぶりの再読となった。
読んだ版は一年前にブックオフで100円で購入した文庫版だが、購入したときにも同じように初読当時をふりかえっている(旧読前読後2002/5/2条)。
元版購入の契機についての記憶もそこに書いてあるとおりで、当時谷崎全集を読み進んでいた折から、本書が谷崎の『瘋癲老人日記』を本格的に論じていたこと(しかも激賞していた)をどこかから聞きつけ、発売から一年半ののち買い求めたのだろう。読んだあとの感想をふたたび引用する。

小林信彦の『小説世界のロビンソン』読了。氏の「『純』文学とエンタテインメント」の境界線或いは区別に関する熱意のこもった書き方に、同感と思ってしまう。この本の中で氏が言及して(激賞して)いる『富士に立つ影』とバルザックの諸作品に興味を持つ。機会があったら読んでみたい。
去年の記述の繰り返しになるが、『瘋癲老人日記』論を期待して購入したわりにそのことに触れていないのは不審だ。
さて今回の再読はまことにエキサイティングなものだった。すぐれた小説論である。解説の風間賢二さんの次の言葉に付け加えるべき言葉が見つからない。「傑作である。そればかりではない。本書は、〈小説とは何か?〉を扱った我が国の評論の類のなかでも画期的な書物である」
子供のころからの読書体験をふりかえりながら、「面白い小説とは何か」「小説の面白さとは何か」を追究していく。分析のメスが振るわれる主要作品は、『吾輩は猫である』、『グッド・バイ』、『ラブイユーズ』(バルザック)、『富士に立つ影』、そして『瘋癲老人日記』。このほか、K・ヴォネガットブローティガン、J・アーヴィングらの作品も俎上にのせられる。
13年前の私は、小林さんが〈純〉文学とエンタテインメントの線引きを疑っている点に目を奪われ、本書のなかで小林さんがもっとも言いたかったことを見落としているようだ。
本書の中核的思想は、なかで告白されているように〈物語至上主義〉であり、小説は面白くなければならないということである。そもそも「面白くない小説」という存在自体不思議だ。物語本来のあり方を語り出すまでに文庫版にして450頁近くの分量を必要としているのが、日本における小説論の難しさをあらわしている。
たとえば以下のような主張が心に残る。
〈物語〉とは、原則的にいえば、小説の方法の軌跡または結果である。作家は、読者に伝達したいと願う思いがうまく届くように、身につけたテクニックを駆使して、物語を創りあげる。(274頁)
語りたいこととかある思い(フット・フェティシズムでもなんでもいい)を一つの幾何学的な物語に組み立てること、読者にあたえる効果を考えながらエピソードの順序を入れかえること、語り手をどうするか(一人称か三人称か)を考えること、伏線をフェアに張ること、眠る時間を削って何度も細部を考え、ノートを書きかえること――作家の誠実さとはそれしかない。(378頁、太字の箇所は原文では傍点)
二番目の引用は、『瘋癲老人日記』分析を受けての結論部である。本書で小林さんが最も言いたかったことの一つなのではあるまいか。
こうして見ると、これを言いたいがために『瘋癲老人日記』論を最後(全35章のうちの第32章)に持ってきて、それまでの30章近くにわたる議論は『瘋癲老人日記』を分析するための壮大な前置きという感がしなくもない。すでに面白い小説を論じている本書が「作家の誠実さ」を感じさせる組み立てられ方をしているのである。
そのような考えのもとに苦労して創りあげられたのが『ぼくたちの好きな戦争』であって、私がそこに“匠の技”を感じ取ったのもゆえないことではなかったのだ。自分の感覚が間違っていなかったことが素直に嬉しい。
13年前の私は、本書の読後『富士に立つ影』とバルザック作品に興味をもった。今回も同じだった。変わらないなあと苦笑しつつ、今回はこれに太宰作品も付け加えられることに、多少の成長を感じるのであった。
もし将来本書を三読する機会があるとすれば、自分の読書世界がK・ヴォネガットブローティガン、J・アーヴィングといった外国作家へと広がっていったときになるのではなかろうか。