中年男と女子高生の物語

お伽草紙・新釈諸国噺

佐野洋さんの『兎の秘密―昔むかしミステリー』*1講談社文庫、→9/25条)はそれにしても趣向を凝らした面白い連作短篇集だったなあと、本置き部屋に入ってこの文庫本が目に飛び込んでくるたびに思い返している。
お伽噺の翻案といえば、その先行作品として避けることができないのは、太宰治の『お伽草紙』だろう。ちょうど佐野さんの本を読んでいたとき、岩波文庫の新刊としてお伽草紙新釈諸国噺*2が出たものだからびっくりした。これは読書の神様のお告げのようなものだろうかと、さっそく購入したのである。
いや、お告げがなくとも、その前の月に同文庫に入った津軽*3も買っているほどだから、いずれ買う運命にあったのかもしれない。これまで太宰作品などほとんど読んでこなかったにもかかわらず、岩波文庫新刊として『津軽』が並んでいるのを目にして思わず買ってしまった。自分でも不思議な心のはたらきである。
佐野さんの作品では、太宰作品が念頭におかれているものが含まれている。『お伽草紙』を収める『太宰治全集』が参考文献として巻末に掲げられている「亀の正体」と、先に傑作と評した表題作「兎の秘密」二篇である。とりわけ後者では、『太宰治全集』第七巻が持ち出され、登場人物の間で太宰治が『お伽草紙』のなかの一篇「カチカチ山」で示した解釈についてあれこれと議論が交わされ、ストーリーの重要な伏線となっているというブッキッシュな短篇に仕上がっている。
太宰の『お伽草紙』では、この「カチカチ山」のほか、「瘤取り」「浦島さん」「舌切雀」の計4篇から成っている。このなかでは、べらんめえ調で話す亀に乗せられて竜宮城に連れて行かれ、結末で三百歳という歳をとった浦島はけっして不幸ではなかったと通説を裏返した「浦島さん」と、前記「カチカチ山」が私の好みだった。
「カチカチ山」では、兎を16歳の処女の女の子に、この兎になぶり殺しにあう狸を37歳の風采のあがらぬ中年男に見立て、狸が兎の奸計にはまりサディスティックにいじめられる様子をこの二人の関係性のなかで考えてみるという、アクロバティックな解釈を展開する。
ああ、私はちょうど狸と同い年なのである。わが身に置きかえてみれば、たとえばこんなことだろうか。16歳の女子高生が自分に惚れていると愚かにも思いこみ、何をされても彼女の言いなり、おしまいにはボロボロになって捨てられる。実は彼女が自分を嫌いだったなんて最後まで気づかない。かまってくれるという相手のそぶりを好意と勝手に勘違いし、彼女の思うがままに操られる哀しい中年男。あり得るかもと考えてしまう自分も哀しい。そんな身につまされる設定に涙を誘われた。
蛇足ながら、『お伽草紙』に併収されている『新釈諸国噺』は、太宰の敬愛する井原西鶴の物語の翻案短篇集だが、『お伽草紙』の自由奔放な解釈にくらべてどうもつまらない。西鶴の物語の問題ではないだろう。翻案の素材として、自由に想像の羽根を広げられるのがお伽噺ということなのだろうと思う。