文壇ジャーナリズムの原点

こころの王国

週末長男にコミックの『名探偵コナン』を買ってあげるため(というのが表向きの理由)出かけたブックオフで、猪瀬直樹さんの『こころの王国―菊池寛文藝春秋の誕生』*1文藝春秋)を見つけたので購った。4月に新刊で出たとき、迷いつつも結局買わないでしまっていた本だった。
本書巻末にある著者紹介に、猪瀬さんの著書は大きく二つのテーマに分けられるとある。ひとつは『日本国の研究』『道路の権力』などの日本の構造的な問題を抉ったもの、いまひとつは近現代作家の創造の秘密を描く『ピカレスク』『ペルソナ』のたぐい。私はこのうちのいずれにも偏って読んできたわけではない。前者に属するであろう『天皇の影法師』『ミカドの肖像』『土地の神話』にはすこぶる興奮させられたし、後者の『ペルソナ』も従来にない三島由紀夫の評伝で、これまた面白かった。
そのうえで、同紹介は本書『こころの王国』を次のように位置づけている。

すべての作品は今日的な意味のうえに書かれなければならないとする作者の姿勢は、「生活第一主義」と批判されながらも、現代のジャーナリズムの基礎をつくった菊池寛と重なる。
したがって、本作品は、著者のふたつの作品群の結節点ともいえる。
たんに私が鈍感だからにすぎないと思われるのだが、読むかぎり、本書は「今日的な意味のうえに書かれ」ていることを強く打ち出しているわけではなく、また「ふたつの作品群の結節点」という位置づけを持つ本であるという強い自己主張もなかったように思う。むしろ『ペルソナ―三島由紀夫伝』*2(文春文庫)のほうが、三島の祖父が関与した疑獄事件を事例に日本政治の構造的問題を取り上げたという意味で、二つの作品群のかなめにあるような気がしないでもない。
もっとも上記の感想は、本書が面白くなかったということを意味するものではない。秘書であった20代前半の女性の目を通した菊池寛の姿という異色の角度からの評伝ともいうべき内容で、一気に読まされた。著者の識語によると語り手たる主人公の女性にはモデルが存在し、彼女の著書が重要な参考文献となっているらしい。
下谷竜泉寺町の貧乏長屋に住み、都電に乗って内幸町の文藝春秋社に通ってくる若い女性。関東大震災を体験した下町女性である反面で、昭和初期の銀座や日比谷を闊歩するモダンガールでもある。そんな二面的な彼女の生活がリアルに描かれ、彼女を通じ昭和初期の都市東京が抱えていた「モダン東京」と下町のギャップがビビッドに伝わってくる。また彼女が菊池寛に関心をもってその自叙伝や著作を読んでいく姿を通して、読者たるわたしたちは菊池寛がいかにして文藝春秋社を興すに至ったかが自然と納得できるようになっている。
菊池寛は挫折を重ねたすえジャーナリズムの世界に身を投じ、その後作家として大成した。親友芥川龍之介と違って自作は漱石に認められず、漱石山房にもなじめなかった。菊池の短篇集『心の王國』に芥川が寄せた跋文に、菊池寛の「生活意志」という言葉が出てくる。先に触れた「生活第一主義」に通じる言葉だろう。主人公は漱石の『こゝろ』を読み、そこに登場する「先生」にも「私」にも生活意思が感じられない高等遊民であることから、短篇集『心の王國』は漱石こゝろ』を否定すべく名づけられたのではないかと推測する。
芸術的価値を優先する文学的潮流にすんなりと乗ることができなかった菊池は、「生活第一、芸術第二」「文芸は生活の意志とともにある」というテーマを抱いて文藝春秋社を興す。これが文壇ジャーナリズムの原点となった。今日的意味というのはこの点を言うのだろうか。文藝春秋社の異色社員馬海松を媒介にした日本と朝鮮の問題というものも、今日的意味に入るだろうか。本書は主人公−菊池寛−馬海松の三角関係的なロマンスも重要な筋となっている。主人公と馬(マーさん)は鷲神社の二の酉の日に結ばれ、その後主人公と菊池寛は三の酉の喧噪のなかで互いを意識する。
ところで猪瀬さんの『マガジン青春譜』*3が今月文春文庫に入った。川端康成大宅壮一の二人を主軸に据え大正のジャーナリズムを描いた本である。さっそく購入して目次を見ると、「『文藝春秋』創刊」という一章があった。そうか、本書『こころの王国』は『マガジン青春譜』の延長線上にあるのか。『マガジン青春譜』が文庫になるのは知っていたけれど、『こころの王国』を買ったとき読んでいるときはすっかり意識の外にあった。前後逆になってしまうが、意図せずに関連文献がつながったことになる。これは次に『マガジン青春譜』を読まねばなるまい。