女性作家と「書巻の気」

ほっこりぽくぽく上方さんぽ

同じ町を対象にしても、ドライバーの目線で見る町の姿と、徒歩者の目線で見る町の姿はずいぶん違うと思う。いま「徒歩者」のようなこなれぬ言葉を使ったのは、仕事などやむをえない事情で歩く人と、さしたる目的を持たず歩くことを楽しむ人の間でも町は違った顔を見せるだろうと考えるからだ。後者は「遊歩者」「散歩者」と言える。
私は東京に来て初めて遊歩者の目線を獲得した。いったんこの目線を身につけると、生まれて18年住んでいた山形の町や、東京に移る前に12年住んでいた仙台の町をあらためて訪れたとき、いままで気づかなかった町の顔を知って驚いたのである。
都市東京の奥行きは深く、遊歩者として汲めども尽きぬ魅力が備わっているのだけれど、人間贅沢なもので、いったん遊歩者のまなざしで見る愉しみを知ると、関心はまた別の町に広がっていく。それまでほとんど見向きもしなかった関西の町に対する興味である。
関西、とりわけ京都でなく大阪という町を遊歩者的関心で眺めるきっかけとなったのは、先日も触れた海野弘さんの『モダン・シティふたたび―1920年代の大阪へ』*1創元社、→旧読前読後2002/9/4条)を読んだことだった。
とはいえ東北の人間にとって大阪の町は京都以上に馴染みが薄く、また東京以上に複雑なように見える。よく見聞きする「キタ」「ミナミ」という地域概念がそう。漠然と大阪の町の北部と南部ということは理解できても、それが具体的にどのあたりの範囲を示すもので、それぞれの地域的特色はいかなるものなのか、また、なぜ「北」「南」でなく、「キタ」「ミナミ」とカタカナ表記が似合うのか、そんな微妙な感覚が本を読んでもいまひとつピンとこないのである。
そんな私にうってつけの本があった。田辺聖子さんの『ほっこりぽくぽく上方さんぽ』*2(文春文庫)だ。大阪は「キタ」の生まれの田辺さんが、女性の編集者とカメラマンを従え、女三人で関西の町を訪ね歩くお散歩エッセイ。
タケリン(武田麟太郎)やオダサク(織田作之助)をはじめ、古川柳や古典文学を自在に引用しながら上方の町まちをそれらに重ね合わせてゆく。大阪のキタ・ミナミだけでなく、帝塚山ベイエリア、堺、泉州、尼崎、紀州、京都、そして神戸に奈良。お上りさん的観光者のまなざしでなく、遊歩者としてのまなざしで捉えられる関西の町まちの何と魅力的なことか。
遊歩者たるもの対象との間には一定の距離をおかねばならない。すなわち客観性ということ。田辺さんは関西人でありながら関西の人間や風土べったりでなく、遊歩者の距離感を保った記述をされているのが読んで心地いい。
編集者を「鉄線コスモス嬢」と名づけて漫遊する姿は紀行エッセイの王道と言ってよいし、何よりも本書は「書巻の気」に満ちている。女性作家で田辺さんほど作品が「書巻の気」に満ちた書き手はいないのではないか。今後田辺さんの作品は小説もエッセイも要注目である。