パリ憧憬

パリの異邦人

「Sound Massage」というiphoneアプリ(もっとも、実際使うのはipod touchだが)を愛用(愛聴)している。癒し系の音を聴くためのアプリであり、たとえば「雨の降る池」「春の丘」「田舎の夏の夜」「海の余韻」や、鳥の囀り、蛙の鳴き声のような自然を素材にした音をただ聴くだけのものである。
でもこれがけっこういいのだ。リラックスするときや睡眠導入のために聴くひとが多いようだが、わたしのばあい、もっぱら集中したいときに使う。仕事に集中したいのに、話し声などがうるさくてなかなか集中できないとき、このアプリを起動させる。ただし聴くのは先にあげた自然系の音ではなく、「パリのカフェ」である。
「パリのカフェ」は、タイトルそのまま、パリのカフェのなかに座っているかのように、まわりの客の話し声や店員の挨拶の声、食器をガチャガチャ運んだり片づけたりする音などの“雑音”がただイヤホンを通して流れてくるだけである。ただし人の声が集中をさまたげているときにはこれが最高の効果を発揮する。雨の音や波の音では人の声はかき消されない。人の声には人の声をもってすべし。耳障りな話し声が嘘のようにカフェの喧噪のなかに吸い込まれていく。
海外に行く必要を感じていないが(パスポートすら持ったことがない)、なぜかパリという都市に対する関心だけはある人間にとって、この「パリのカフェ」があればわざわざ行かなくてもいいや、大げさに言えば、そんな気分にさせられる。
鹿島茂さんの『パリの異邦人』*1(中公文庫)を読んだら、ますますこの気持ちが増幅された。本書に登場する文学者たちのように、自分もパリに訪れたいという方向に気分が高まるのではなく、登場する人びとのパリ話を読めば、もうパリに行った気になるというブッキッシュな満足感にひたされた。
ライナー・マリア・リルケ。本書のトップバッターである。代表作『マルテの手記』に描かれるパリ風景が紹介されているが、鹿島さんによるリルケポルトレを読むと、取りあげられた『マルテの手記』を読みたくなってたまらなくなった。“鹿島マジック”だ。
大学生のとき受講していた第二外国語はドイツ語だった。1年のときだったか2年のときだったか忘れたけれど、このときのテキストが、リルケの『若き詩人への手紙』だった*2。さいわい新潮文庫による邦訳は刊行されていたものの、日本語にされた文章を読んでもすんなり頭のなかに入ってこないような内省的な内容に手こずった。そもそも語学が苦手なうえ、リルケの文章のおかげで、あやうく単位を取り損ね、留年するところだった。だからそれ以来リルケという名前には拒否反応を感じていたのである。
そういう苦い過去があるにもかかわらず、「あれ、意外にリルケの『マルテの手記』は面白いのかも」と思ってしまうのだから、やはりパリのナビゲーターとしての鹿島さんの腕は素晴らしい。
つづくバッターたち、ヘミングウェイジョージ・オーウェルヨーゼフ・ロートヘンリー・ミラーの章も面白く、彼ら異邦人たちのパリ体験がどのように作品に反映されているのか、彼らはパリのどのような場所に着目したのか、彼らの作品から浮かんでくるパリという都市(あるいはパリの各地域)の性格はいかなるものなのか、原典にあたってみたいという読書欲が高まったのである。
ただし、アナイス・ニン以下女性のポルトレになると、上記のようなパリの空間的性格から距離をおき、彼女たちの生活そのものを追いかけるほうに、鹿島さんの関心が傾いてしまう。アナイス・ニンの章の途中で、だから鹿島さんはこんな反省の弁を挿入する。

アナイス・ニンの濃密な性と愛の記録にのめりこむあまり、『パリの異邦人』というこの本の趣旨を大きく逸脱してしまった。つまり、パリのトポグラフィーの中に彼女とヘンリー・ミラーの「愛の空間」を跡付けるという作業がおろそかになったのである。(158頁)
まあ鹿島さんのこうした「逸脱」は多分に確信犯的だとは思うのだが、そこまでの章が面白かっただけに、読んでいるわたしも大きくうなづいてしまった。異邦人のパリ体験を、パリのトポグラフィーのなかに位置づけるためには、女性の手になるテキストよりも、男性のテキストのほうが具合がいいのだろうか、などと考えてしまったほどだ。
異邦人が異邦人のままでいることを許容する。異邦人が無理にそこから脱却しようと思わずにすむ。他から影響をこうむらず、そこに住んだ異邦人へも影響を及ぼさない。しかしそこに住んだ異邦人はパリ住まいという体験を触媒にして、あらたな飛躍をする。パリにはそんな触媒都市だと鹿島さんは言う。
それなら一度…とは思うものの、やはり外国語が駄目だからどうにもならない。鹿島さんのパリ本、またそこから広がるパリを描いた作品群だけでお腹が一杯になる。

*1:ISBN:9784122054837

*2:リルケをテキストにした先生が病休されたときの代講の先生は、ベンヤミンの「暴力批判論」をテキストにした。いま思えばたいへんな組み合わせだ。ただリルケのドイツ語もベンヤミンのドイツ語もたいそう難しかった。