澤瀉屋の歴史

猿之助三代

わたしが歌舞伎をはじめて観たのは、1998年7月、歌舞伎座においてであった。そのころ毎年7月は猿之助率いる澤瀉屋一門による「猿之助大歌舞伎」の月であり、このときは「義経千本桜」の昼夜通しが出されていた*1
東京に住みはじめたのが98年4月なので、まだ数ヶ月しか経っていない。とある女子大に勤めている先輩が、担当するゼミ生を引率して研修旅行のため上京し、歌舞伎を観るというので、一緒にどうかと誘われたのである。先輩は江戸時代を専門にしていたので、歌舞伎を観るというのも立派な研修旅行の一環なのだった。若い女の子たちと歌舞伎を観ることができるという下心がなかったといえば嘘になるが、その誘いに一も二もなく乗った(念のため、妻も一緒に観劇したことを申し添えておく)。
観たのは夜の部に出る「すし屋」と「川連法眼館」二幕で、幕見席で観た。歌舞伎を観るのはお金がかかると思いこんでいたので、このようにひと幕だけ廉価で観られる幕見というシステムがあるということをいきなり知り、経験できたのは、その後歌舞伎に毎月のように通いつづける大きなきっかけになった。
もちろん、最初に観たのが猿之助の、しかも「川連法眼館」の宙乗りであったというのも大きい。花道の上を吊り上げられながらも狐の動きを止めない猿之助の勇気、そのまますぐ目の前の三階席に設けられた“宙の揚幕”に引っ込むスペクタクルにひどく興奮した。歌舞伎初体験の者にとって、「すし屋」のほうはなかなか分かりづらい内容であったが、「川連法眼館」はまったく逆であり、歌舞伎好きになる一因となったのは間違いない。
宙乗りや早替りといったケレンを惜しげもなく見せ、従来の演出から大きく外れるスーパー歌舞伎といった興行で客を魅了する猿之助は、歌舞伎の世界から見れば異端であるという一般的な通念は、歌舞伎を観ていくうちに強く再認識させられたが、そのいっぽうで、これこそが歌舞伎なのではないかという思いもないわけではなかった。
猿之助の祖父にあたる二代目猿之助(猿翁)もまた実験精神に富み、澤瀉屋にはそういう血が流れているということを知ったのも、歌舞伎にのめりこんでからのことである。ただ、猿之助の父三代目段四郎も含め、彼らの家のことを知るいい本がなかった。
だからこのほど出た小谷野敦さんの新著猿之助三代』*2幻冬舎新書)は、わたしにとって、上記のような知識欲を満たすうえでまことにありがたい一冊だった。
初代から当代(さらには猿之助の息子である香川照之と甥である亀治郎まで)の伝を書ききるには、二百数十頁の新書では器が小さすぎる。時間を追って丁寧に興行演目を記録し、そこで起きた事件や、それら事件の背景となる歌舞伎界の人間関係などまで微細に詰め込んでいるから、新書にするにはもったいないほど中味が充実しているいっぽうで、おびただしい登場人物が次々と出てきては消え、読むうちに頭が混乱してきた。人名索引があれば、読み返すときにも便利だったのだが。
澤瀉屋三代の伝だけでも読み応えは十分にあるのだが、そのところどころにはさまれた小谷野さんの鋭い寸評がまた面白い。

團十郎菊五郎といった大物俳優や、歌舞伎座市村座といった大芝居ばかりが従来は研究されてきたが、猿之助(初代―引用者注)が二度にわたって小芝居に向ったことは、高尚さを追求する芝居よりも、観客が喜ぶものへと向かう、澤瀉屋精神のようなものを、初代からして感じる、ともいえようか。(45頁)
團十郎菊五郎時代の、活歴新作は廃れ、大正期の新歌舞伎と、義太夫狂言が中心となっていき、けれん歌舞伎が異端視されるようになったのも、実はこの時代(昭和初期―引用者注)である。私たちの文化史についての感覚はしばしばずれていて、けれん歌舞伎が近代になって否定されたのではないのである。(118頁)
いや、社会全体が、高齢化のため、いつまでも引退しない大物のために、若者の出番がなくてひどくなっている。竹本越路大夫のような、きっぱり引退するという見事さを、いずれの社会でも持てないものかと思う。(206頁)
最後の引用文など、思わず深くうなずいてしまった。また坂東三津五郎家は、不思議と、とんとんと襲名が進む家である」(152頁)というのも、また然りである。襲名という現象になぜか惹かれる人間としては、本書によってたくさんの襲名にまつわる話を知ったのは、愉しい読書体験であった。
そのほかいくつか知ったこと。俳優澤村い紀雄が歌舞伎界出身らしいこと(114頁)、初代猿之助実弟市川小太夫のこと。本書において猿之助の弟として小太夫の名前が出たとき、どこかで見おぼえのある名前だと思っていたが、思い出した。江戸川乱歩と交友のあった探偵小説好きとして乱歩の本に登場していたのを記憶していたのである。本書により、本職である歌舞伎役者としての、また澤瀉屋一門としての彼の姿を知ることができた。
乱歩の自伝『探偵小説四十年』を繰ると、昭和六年度の章に、「小太夫一座の「黒手組」劇」という項目が立てられ、そこで小太夫のことが述べられている。この項は小太夫一座が乱歩の短篇「黒手組」を脚色上演したときの回想であり、小太夫は「小納戸容」という筆名で「黒手組」の脚色をしたと書かれてある。この「小納戸容」の筆名が、けっこう強烈な記憶として刻まれている。説明するまでもなかろうが、これは「こなんどいる」と読む。光文社文庫版全集(第28巻*3)の当該項を見ると、上演のさい乱歩が招かれ、一座と一緒に写った記念写真が収められている。小太夫という人はなかなかの美男子なので驚いた。いまの歌舞伎役者でいえば染五郎風の顔立ちだ。
澤瀉屋自体が歌舞伎界のなかで異端、傍流といった位置づけにあるが、その澤瀉屋のなかでも初代猿之助の弟である小太夫はさらに傍流であるので、歌舞伎役者としては不遇だったようだ。そのあたりを知る文献として『探偵小説四十年』は貴重だろう。

*1:社団法人日本俳優協会ホームページの「歌舞伎公演データベース」によって記憶を補った。

*2:ISBN:9784344982161

*3:ISBN:433474009X