偶然にして必然の出会い

メルヘン誕生

高島俊男さんの『メルヘン誕生―向田邦子をさがして』*1いそっぷ社)を読み終えた。
本書の存在を初めて知ったのは一昨年五月のこと。日本橋高島屋で開催された「向田邦子 その美しい生き方」展で並べられていた。本書の刊行は2000年7月だから、刊行後すでに十ヶ月を経過している。
このときは高島俊男さんの著書を読んだことがなく(そもそも初めて読んだのは昨年末だ)、『お言葉ですが…』を書いたエッセイストということしか知らなかった。だから「へえ、あの高島さんが向田さんのことを…」程度の感想を持っただけで、買うには至らなかった。
先日綾瀬の古本屋デカダン文庫に行ったとき、『向田邦子 映画の手帖』(徳間文庫)を購入した。そのさい店主さんから向田さんの関係書籍を何冊か見せてもらいながら、高島さんの本をふと思い出した。店主さんにこの本があるか訊ねてみたが、残念ながら入っていなかった。
その後掲示板で本書のことが話題に出、強く意識するようになったのである。そもそもデカダン文庫で思い出したのには、この間文筆家高島俊男の名前は私の中で注目すべき人物に浮上したという事情がある。その高島さんによる向田邦子論、見逃すべきではない。
こうして頭の中にインプットして幾日も経ていないある日、立ち寄った新古本屋系書店の単行本の棚をひとわたり流したあと、「ああ、そういえば高島さんの…」と思い出して「た」の棚に戻ったら、何と本書を発見したのである。そこにある高島さんの著書はこの一冊のみ。奇跡的な出会いというべきか。
出会いはかくのごとき偶然とはいいながら、デカダン文庫掲示板でのやりとりという経緯があったからこそ高島俊男の名前がインプットされ、その結果入手が叶ったという意味で、必然であるともいえよう。
本書は、デカダン文庫の店主さん、義久さん、ももこさんとのやりとりがあったからこそいまこのように手元にあるのである。皆さんに感謝申し上げたい。
前置きがたいへん長くなってしまった。本書を一読しての感想はひと言「衝撃的」であった。
初めて読んだ向田作品は、多分に漏れず『父の詫び状』(文春文庫)であり、このときの感動は2001/3/15条に興奮した筆致で書かれてある。その後第二エッセイ集『無名仮名人名簿』を読んで(感想は2001/5/31条)意を強くしたのは、私にとって向田作品は浸透圧が高いということだ。
文体にしろ内容にしろ、何の障碍もなくスッと頭の中に入ってきてとけ込んでいく。このことに強く感動して、それ以来向田邦子=名エッセイストという印象が深く刻まれた。
私の手放しの賛意とは裏腹に、高島さんの見る目は冷静である。むろん向田文学が好きだからこそ向田邦子論の一書を成したことは前提にしなければならず、また『父の詫び状』が最高傑作であるという点は一致する。「戦後の、新かなづかいで文章を書いた人のなかでは、一番うまい」(20頁)という賛辞すら贈っている。
そのいっぽうで是々非々の姿勢で冷徹に作品を見据えるまなざしに驚嘆をおぼえた。私は感動のあまり目をくらまされて、作品のもつさまざまな矛盾点にはまったく気づかなかったのであるから。
『父の詫び状』の初出(『銀座百点』連載)順序と単行本の排列順序の変更を綿密に比較し、執筆当初の意図が変化していった様子を明らかにする。また、そこで描かれた父の肖像、また家族の姿を、当時の社会環境を念頭においたうえで再検討する。
同書で描かれた父、家族の姿と実像とのズレがあることから、『父の詫び状』は向田邦子が創り出した昭和十年代のメルヘンだとするのである。書名はこの議論に由来する。
またドラマの脚本作家ゆえと思われる表現の粗っぽさに関する指摘も遠慮ない。現代の尺度(たとえば教育制度)で戦前の様子を書いてしまう浅慮、稚拙な表現にも情け容赦ない。直木賞を受賞した『思い出トランプ』連作に対しても、一作一作を読み込んで佳品と駄作をはっきりとより分ける。このあたり高島さんの本領発揮である。
本書は最終的に、作品論を超えて人物論へとたどりつく。向田邦子が墜落した飛行機に乗ったのは偶然だが、向田邦子の人生は満51歳を一期として死ぬように運んできたのであり、彼女の人生は中途半端に終わったのでなくそこで完結したという。
さらに、客観的に見れば成功した人間に属する向田さんは、自分自身では常に敗北者と感じていたのではないかと推測している。「敗北」というのは、妻として母として家庭を持ちえなかったという意味だ。
家庭を持ちえないことは一般的に言えば敗北に直結しない。向田さん自身常にそのことを意識して、成しえなかった、つまり敗北したと感じていたらしいということなのである。
本書は「そして最後は、敗北者らしく、りっぱに玉砕した」という印象的な一文で締めくくられる。このような見方をしてしまうことに異論が出るかもしれない。しかしながら、これまで向田邦子に対して、久世光彦さんや山口瞳さんなど一部の人を除けば、興味本位の人物論しかなされていなかったのではないかと考えれば、問題提起の書として価値があるといえるだろう。
以上の感想で書ききれなかったエピソードも多い。そのなかでは三島由起夫嫌いだったというのが面白い。
彼女は男がわざと男っぽく見せようとするのが女みたいであり、三島の豪傑笑いの後ろに透いて見えるひ弱さを嫌った。高島さんは、女でありながら男の要素が強い向田邦子、女の要素が強い三島は怜悧で敏感という共通点があり、その実似ていると付け加えることを忘れない。
このなかで、「この人は、女であるのを売りものにすることをきらったし、女であるから甘く見てもらおうという根性をにくんだ」「女より男のほうがりっぱだと思っている。女は概してダメだと思っている」「自分を男の仲間だとするのである。男を同輩として、女を他者として見ている。男には共鳴するが女には同情がない」という重要な指摘もある。
私が向田さんの文章を気に入ったのは、あるいはこうした側面を感じ取ったからなのかもしれない。