情念は歴史を動かす

情念戦争

鹿島茂さんの『情念戦争』*1集英社インターナショナル)をようやく読み終えた。そう、「ようやく」という表現がぴったりなほど、時間がかかってしまった。これはつまらなかったというわけではない。正反対である。
なにしろA5判470頁(帯には1000枚とある)の読み応えのある「歴史読物」の大著だ。それゆえ一気に読み通すことは難しいと早々に判断し、並行して比較的軽めの小説・エッセイのたぐいも読むことにした。私のよくする「読書に飽きたら読書」のパターンである。
そうしているうち、並行読書のほうに興が乗ってしまい、鹿島さんの本をおろそかにしてしまったのだった。おかげで、本書の脇を通り過ぎていった並行読書の本が十冊を数えることに。
本書の主人公はナポレオン、タレーランフーシェの三人。フランス革命前夜からナポレオン帝政までの18世紀後半〜19世紀初頭に歴史の表舞台に登場した彼らにスポットライトをあてる。
この時期のフランスの政治的動き、またこれと連動したヨーロッパの激動は、極言すれば上記三人の有する「情念」のぶつかり合いに起因するという大胆な視点から歴史のうねりが描かれる。
三人の情念とは、いったん物事に熱中したら他事が目に入らなくなるナポレオンの「熱狂情念」、同じ党派や組織に長くいることにすぐ飽きてすぐ別の党派に移りたくなるというタレーランの「移り気情念」、安定した組織にいることが堪えられず、絶えずその分裂を画策して陰謀をめぐらせずにはおかないというフーシェの「陰謀情念」である。
私が申すまでもなく、フランス革命にはそれなりの、ナポレオンの登場と帝政の開始にはそれなりの政治的社会的背景があって、この動きを理解するためには上部構造を見るだけでは不十分であり、それ以上に社会の下部構造へのまなざしが不可欠であると考えられているに違いない。
鹿島さんはそんなことを意に介さず、ひたすら三人の情念のおもむくところを追い続け、歴史を記述した。やんややんやの喝采を贈らずにはいられない。折り目正しい“歴史家”はこの鹿島史観を認めるまい。上でわざとカギ括弧でくくったように、「歴史読物」と蔑むだろう。いや、当の私だって、もし自分の研究分野にこんな面白くて刺激的な本が出たら、ちょっと困るなあという気持ちがある。
けれどもナポレオンの時代であれば私は門外漢だ。苦虫を噛みつぶしたような西洋史家の人びとの表情を想像しながら、これでこの時期の時代の流れがわかりましたと胸を張って言おうではないか。
三人それぞれの情念について、こんなうまい表現はないだろうと思った箇所を以下引用したい。まずはタレーラン

タレーランは五感を快く刺激してくれる事物には散財を惜しまなかった。その最たるものは書物である。
(…)タレーランにとって、女と書物という、普通の人間にとっては絶対的に二律背反するはずの要素が、つねに同時併存で、心と精神を支えていたのである。(51頁)
「女と書物という、普通の人間にとっては絶対的に二律背反するはずの要素」という言い方に、鹿島さんの本音がちらりとのぞく。次にフーシェ
相手が激情的になればなるほど冷静になり、相手が隙を見せたとたん、猛然と襲いかかる。熱狂情念に対するに、陰謀情念をもってするパッション・ゲーム。この危険きわまるゲームに身をゆだね、殺るか殺られるかのスリルを味わう。フーシェは、つねにより困難な相手を求める格闘家の本能の持ち主だったのである。(204頁)
最後にナポレオン。ここで述べられているロシア遠征(いわゆる「冬将軍」に対する敗北)は、こういうことだったのかと本書を読んで初めてわかった。
そう、ナポレオンの熱狂情念の対象は、戦争それ自体であり、ロシア遠征に理由はなかったのである。そして、ナポレオンがいったん決意した以上、もうだれにも戦争を止めることはできなかった。(296頁)