清張に夢中

渡された場面

このところ時折思い出したように松本清張の作品を読むようになった。そしてその都度感服している(旧読前読後2000/7/25、2001/2/18、2002/11/29、12/29、2003/2/9各条)。川本三郎さんの影響が大きいに違いないが、たぶんそれだけではない。清張作品にある負のパワーがしっくりくるようなバイオリズムがあるのだ。
いまそのバイオリズムの波がちょうど「清張を読みたい」という状態にさしかかっているような気がする。
きっかけは、先日書いた川本三郎さんの講演「林芙美子の昭和」である。そこで川本さんは、清張作品のなかに芙美子の小説を読む女が登場するものがあって、これは『点と線』に匹敵する傑作だとコメントしていた。この話は川本さんの『林芙美子の昭和』(新書館)にも紹介されている。

松本清張に『渡された場面』という面白い小説がある。一九七六年に発表された作品で、佐賀県の小さな町に住む文学青年が、旅館の仲居をしている恋人を、金持の娘との結婚の邪魔になるので殺害する話である。
この仲居をしている気立てのいい女性は、林芙美子の小説が好きでよく読んでいる。
(…)旅館で働いている若い女性が『放浪記』や『風琴と魚の町』を読む。林芙美子の庶民性がよく出ている。しかし、いつか東京の純文学雑誌で認められたいと思っている文学青年のほうは、林芙美子など馬鹿にしていて、彼女にこんなことをいう。「林芙美子なんかに感心しとるのは、通俗だな、おまえも」。(「あとがき」)
川本さんはこれを、現代における林芙美子観を象徴するエピソードとして、講演会でも取り上げていた。ただし読んでみると、最初のパラグラフの殺人動機「金持の娘との結婚の邪魔」という説明が不正確であるが、「傑作」「面白い」という評価はまさにそうであった。
長篇『渡された場面』*1新潮文庫)は、犯人当ての謎解きミステリでなく、犯行がじょじょに解き明かされてゆくスリルを味わう倒叙物だから、とくに配慮すべきことはないのだが、やはりこのスリルを説明してしまうと面白くない。
中央文壇指向の文学青年が、自らが中心となって作っている同人誌の場では傲慢になる。その彼の文章が文学誌の同人誌紹介で引用され、実はこの文章は急逝した著名作家の反故を盗用したものだったということから、九州と四国で起きた二つの殺人事件が偶然にも結びつくという趣向に夢中にさせられたのだった。