本読みの嘆き

笹塚日記 親子丼篇

目黒考二さんの笹塚日記 親子丼篇』*1本の雑誌社)を読み終えた。
前著『笹塚日記』(同上、旧読前読後2002/4/7、4/8条参照)が1999年1月から2000年5月までであったのにつづいて、本書では2000年6月から2002年5月までの二年分の日記が収められている。
タイトルにある「親子丼篇」とは、この間目黒さんが近くの定食屋の親子丼をよく食べていたからだそうだが、日記を読んでいるとそれほど親子丼を食べる場面が目立っているわけではない。とはいえ目黒さんは凝り性というのか、一昨日のナポレオンではないが「熱狂情念」があるというのか、一つの物事にこだわると同じ事を何日も続ける癖があるようだ。
親子丼を食べ始めると何日も続けるだけでなく、最初のほうでは太り気味なのを気にしてか万歩計を身につけ始めて毎日歩数を記録したり、この記載がなくなったと思ったら、今度はカロリーブックを買い込んで食事のカロリー計算に凝ったりする。もっともこれらは長続きしていない。
このなか、もっとも印象的なのが自炊生活の開始だろう。仕事場に電子レンジを置いて冷凍食品を自分であつらえて食事する生活がしばらくつづいたあと、2001年10月に突如自炊生活宣言をする。フライパンや鍋などの食器、また料理本などを次々に買い込み、仕事場で本格的な自炊生活を始めたのだ。
この生活は年を越して2002年に入っても続いている。まだ現在も続けられているのだろうか。自炊生活のなかで親子丼づくりもしているから「親子丼篇」でもいいのだが、むしろ「自炊篇」のほうがしっくりくる感じだ。
前著と異なる点に脚注がある。本の雑誌社の社員二人との対談がそのまま注になっている。対談もひとつの流れになっているので、本文から目を脚注に移すのが途中で面倒になって、あとで脚注をまとめ読みすることにした。脚注には、部分的に目黒さんが自炊してこしらえた料理の写真が挿入されている。
相変わらず本を読み、原稿を書き、競馬場に行き、寝て…という精力的な暮らしぶりに圧倒されるのだが、今回は書友藤原龍一郎さんの歌文集『東京式』が引用されていたり(2001年5月17日条)、私もよく訪れる読書サイトをけっこうご覧になっているなど、読んでいて驚かされるような記載が多かった。
このところ私は、目黒考二北上次郎さんの読書連想型エッセイに傾倒しているのだが、それらで語られているご家族(息子さん)の話を含む家庭の話は一切登場しない。また競馬場での話もほとんど触れられていない。前者は読書連想型エッセイに、後者は藤代三郎名義のコラムにきちんと棲み分けされているのだなあと気づいて驚く。
前著から述べられていたと思うのだが、今回顕著になったのか、あるいは私が気にするようになった記述に、諦念のこもった慨嘆調の捨てぜりふがある。もうほとんどこれは一種の芸になっているといってよい。たとえばこんな感じだ。

そういえば今年になってから5キロは太っている。ネットには「ああいう食生活をしていたらこうなるんですね」とか何とか書き込まれるし、最近は頭髪も薄くなっているし、もういいんだ、どうなってもいいんだ。(2001.5.7)
駿河台下まで歩きながら、オレは映画も見ないし、音楽も聞かないし、本以外の面白そうなことを何も知らないんだということに気がつき、愕然とする。いいんだ、このままくたばっていくんだ。(2002.2.7)
知り合いの出版記念パーティが本日夕刻より行われ、本当は私も出席する予定だったのだが、どうにも身動きがとれずに急遽、欠席。こうして世間を狭くしていくんだ。もういいんだ。(2002.3.8)
「もういいんだ」という諦めの捨てぜりふはこのほかに何ヶ所も登場する。これがまた読みながら哀しくも笑ってしまうのである。
本好きとして共感させられたのは次のエピソード。笹塚の紀伊國屋書店で鈴木笑子『天の釘』という本を見つけたときのこと。こういう話があるから『笹塚日記』はやめられない。
後者(『天の釘』―引用者注)は「パチンコの神様正村竹一」の生涯を描いたノンフィクションだ。パチンコに特別興味があるわけではないのだが、図書館が購入するとも思われないので、こういう書は見かけたときに買っておかないと、絶対に手に入らなくなる。ただそれだけのことで購入するというのも問題なのだが、そういうタチなので仕方がない。
(…)椎名があがってきて、しばらく雑談。机の上の『天の釘』を見て、「面白そうな本だな」と一言。やっぱり目に入るか。これでもう元を取った気分。(2001.4.8)