ブラリの精神

最近久保田万太郎戸板康二という系譜の文人に関する本を読みつつ、彼らに関連するサイトを拝見したりするうち、それらで得た情報が混乱してきて、いったいどの情報が何を出典としていたのか、わからなくなってくる。
このほど読んだ夏堀正元さんの評伝小説『風来の人―小説・高田保(文春文庫)も、何かで夏堀さんに高田保のことを書いた本があると知り、古本屋に行くたびに夏堀さんの文庫本に注意していたが、運よく職場近くの古本屋でめぐりあったのである。夏堀さんの本を知った情報源をすっかり忘れているばかりか、この本に取り上げられている高田保という人物を知るきっかけも記憶が怪しい。
本書を読んでいるうちに、高田は久保田万太郎と同じ「いとう句会」の同人であったことが書かれてあったので、やはりこれまた久保田―戸板ラインなのだろうと推測するばかりである。
なぜその高田に興味をもったかといえば、わがエッセイ好きに由来する。博雅の知識に裏打ちされた話題豊富なエッセイに目がない私としては、そのようなエッセイ(コラム)の嚆矢と言われる(この嚆矢という評価すらどこで知ったのか憶えていない)高田の『ブラリひようたん』(東京日日新聞連載)にたどり着いたというわけだ。
高田保とは、大正期から昭和戦後直後にかけて活躍した劇作家・随筆家である。早稲田の同級生に、小津映画の脚本家として知られる野田高梧がいる。大正時代は全盛期の浅草オペラに蝟集する人間たち、いわゆる“ペラゴロ”として知られ、また震災後には勃興するモダン都市のなかでも銀座をこよなく愛して毎日のように徘徊して風俗観察を行なったらしい。ここで培われた鋭い風俗・社会観察がのちのコラムに実を結んだ。
稀代の韜晦屋にして何者にも属さず権威を忌み嫌う自由人、本人はこれを“ブラリズム”と称し、「あなたは何者なのか」という問いにこう答えた。

ぼくはなにもかもから、ひたすら逃げ出してきた男だ。(…)そしていきついたのが、ブラリの精神さ。ブラリの精神は、無為であるということだ。功名心もなく、野心もなく、まったくの無為が、ぼくの理想なのだ。(218頁)
最後に肝心の『ブラリひようたん』だが、必ずしも私の好みではないかもしれないことが分かった。でも目を通してみたいという気持ちはある。