究極のメタ・ノベル

但馬太郎治伝

獅子文六は、もう、すごすぎる。まずこう書かないことには気持ちがおさまらないほど、獅子文六の小説は何を選んでも面白くてハズレがない。今回読んだのは6冊目、『但馬太郎治伝』*1講談社文芸文庫)だ。
この長篇の主人公但馬太郎治のモデルは薩摩治郎八という。薩摩の伝記については戸板康二『ぜいたく列伝』(文春文庫)中の「薩摩治郎八のパリ」に簡潔にまとめられている。それによれば、治郎八は、近江商人出身の木綿問屋を営む豪商薩摩治兵衛家の三代目として、明治34年(1901)、駿河台にある薩摩邸で生まれた。
その後の詳しい彼の事績は獅子の小説を読むにしくはないのだが、とにかくパリの社交界で幅をきかせた日本人として有名で、大パトロンとして祖父以来の財産を蕩尽した伝説の人物である。
いま、『但馬太郎治伝』という書名に「伝」のつく彼の立派な評伝小説を紹介しているにもかかわらず、伝記的事実を戸板さんの本に拠ったのには理由がある。獅子の作品で述べられている伝記的事実に嘘はないと思われるのだが、獅子が彼の自伝をなぞって再構成したくだりは、作品全体から見ればあまり面白い部分とは言えないから、つい読むのにも力が入らなかったのである。
薩摩と獅子には奇妙な因縁があった。戦後疎開先の愛媛から帰京した獅子は、主婦の友社から自社の寮に使っていた駿河台の邸宅を提供された。それが実は治郎八がパリから帰ったときに建てた洋風豪邸(ヴィラ・モン・キャプリス)のなれの果てだった。
それ以前、獅子がパリに滞在していた頃、パリの社交界で羽振りをきかせていたのが治郎八夫妻であり、獅子は彼らに反撥を感じていたという。戦後に身を寄せた仮住まいが治郎八の夢の跡と知って獅子は驚く。ここまでが「パリの巻」「駿河台の巻」という前半。
その後、駿河台の家で妻を喪い、獅子は娘と大磯に転居した。転居先はもと伊藤博文の別荘という話だったのだが、よく聞くと実は伊藤からこの家を買い受けたのがまたもや治郎八だというのだ。因縁に驚く獅子。これが「大磯の巻」。
大磯で獅子は、戦後帰国した治郎八が書いた自伝を読む。自伝の要約がここに挿まれる。しかし治郎八に対してこれ以上の関心を寄せないまままた時間が過ぎた。
晩年になって新聞連載小説の依頼を受けた獅子は、その取材のため奈良・徳島を訪れた。その徳島で隠棲生活をしていた治郎八に偶然遭うのである(「徳島の巻」)。どんな小説にしようか悩んでいた獅子だったが、結局成ったのはこの『但馬太郎治伝』にほかならない。
つまり、『但馬太郎治伝』という小説は、それがどんな経緯で構想され、書かれたのかという執筆動機を綿々と書きつづったものなのである。自らと治郎八(太郎治)の因縁を縷々述べた果てに、こんな数奇な出会いがあって、はいこういう小説ができましたと提供されたのが、それまで私たちが読んできた小説そのものなのだ。これをメタ・ノベルといわずして何と言おう。
しかも面白いのは、前述のように、書名に「伝」と付きながら肝心の「伝」の部分がいまひとつで、逆に、獅子が治郎八(太郎治)と奇妙な因縁があるということに気づくまでのいきさつの部分が精彩に富んでいること。
読んでいるうち、読者たる私たちは、この屋敷はきっと薩摩邸なのだろう、大磯の別荘は旧薩摩家の別荘なのだろうとうすうす勘づいている。これがいつ小説のなかで明かされるのか、そうした関心を餌にまいて読者をぐいぐいと引っ張ってゆくのだ。これこそ新聞連載小説の骨法、獅子文六の真骨頂なのかもしれない。
駿河台旧薩摩邸での仮住まいのときに『てんやわんや』が書かれ、またここに住んだときの体験がのちの『自由学校』に実を結んだ。そんな獅子の自伝的要素も含まれていて、さらなる関心を煽りたてるのである。