姦通すると元気になる?

文士と姦通

いまとなっては「姦通」という言葉は物々しい印象を与える。戦前の刑法第183条で規定された姦通罪とは、妻が姦通したとき、夫は妻とその姦通相手を告訴し、裁判によって「二年以下ノ懲役」に処すことができるというものである。
もとより姦通の事実があっても告訴がなければ「姦通罪」は成立しない。むろん戦後憲法の下で姦通罪は消滅したが、姦通という事象自体は消えたわけではない。現在では「不倫」と名を変え倫理的問題として扱われている。
姦通というある種「異常な」性愛関係は、その極限状況による緊張感ゆえか、文学者にとって豊かな作品世界の広がりをもたらしたらしい。それが不法行為となった戦前であれば現在以上に当事者に緊張感を与えただろう。
姦通体験を有し、この体験がすぐれた文学作品を生み出すきっかけとなったような文士は意外に多い。川西政明さんの『文士と姦通』*1集英社新書)はそうした文士たちの「姦通事件簿」である。
本書では、北原白秋芥川龍之介谷崎潤一郎宇野浩二宇野千代岡本かの子佐多稲子有島武郎志賀直哉島崎藤村夏目漱石の11人の文学者が取り上げられている。このなかでは「壱 大正文士の姦通」というくくりでまとめられている白秋から宇野浩二まで四人に関する章が抜群に面白いし、なまなましく刺激的だ。
近年の研究成果による新事実の発掘を取り入れた「文士と姦通」の諸様相は、初めて知ることもあって、各作家、その作品に対するまなざしの変化を私にもたらした。たとえば芥川の自殺の一因として、「ぼんやりした不安」という「公式見解」の裏に、姦通に悩んでいたことがあったという指摘。「歯車」など晩年の作品群を再読したくなる。
また谷崎と佐藤春夫の有名な「妻譲渡事件」に絡んで、いま一人の人物の存在が明るみになったこと。
谷崎の妻千代が春夫と再婚する以前、その人物との再婚の話が直前まで進んでおり、春夫はそれを知って慌てて間に入ったという。谷崎の『蓼喰ふ蟲』で描かれた四人がそのまま当時進行していた谷崎・千代・春夫・いま一人の人物をそのままモデルにしているというのだ。有名すぎる事件だけに「いまさら」と思っていたが、この指摘には驚かされた。『蓼喰ふ蟲』も再読したくなる。
最後の漱石だけは姦通の事実がなく、江藤淳大岡昇平の論争をなぞっただけで、「壱」の精彩あふれる叙述とくらべると歯切れが悪い。