病める明治人の症例報告

明治の精神異説

トランプのカードをすべて伏せ、二枚めくって数字が合えば取り、違えばふたたび伏せるというゲームのことを「神経衰弱」という。これは誰が名付けたのだろう。
もともと欧米渡来のゲームで英語名がそれらしいもので(たとえば“neurasthenia”)、その直訳に過ぎないのであれば別だが、そうでなければこのゲームに「神経衰弱」と名づけた日本人のセンスに恐れ入る。大げさながら絶妙なネーミング。たしかにあれは頭を使うゲームで、やっていて疲れるからだ。
ところで神経衰弱とは文明病だ。日本には明治維新による西洋文明・西洋思想の流入とともに入ってきた。むろんその前から神経衰弱にあたる症状が皆無だったというわけではないだろう。それらは狐憑きなどの憑依現象として、民間習俗・民間伝承のなかに存在した。それらの現象を「神経衰弱」と名づけるとき、その背景には大きな文化摩擦や資本主義の競争原理による「疲労感」が横たわっているのである。
度会好一『明治の精神異説―神経病・神経衰弱・神がかり』*1岩波書店)は、異文化の波をもろにかぶった明治人たちを襲った神経病の事例を掘り起こし、それらを明治という時代相のなかに位置づけた意欲作である。
私は本書を「病める明治人たちの症例報告」、つまり精神を病んだ明治人たちのエピソード集として楽しく読んだ。
明治天皇家における漢方医から洋医への転換と脳病の関係、立身出世の精神が及ぼす精神の病により自殺した子規の従弟藤野古白、三遊亭円朝の「真景累ヶ淵」、島崎藤村の父で平田派国学者の島崎正樹の狂死、漱石の神経衰弱、明治に多く誕生した金光教黒住教天理教大本教などの新宗教と神経病・憑依現象との関係などなど。
最後の新宗教の話でいえば、明治政府が取り込んだ西洋開明主義は、必ずしも日本古来の民間習俗のなかに生きていた憑依現象を排除するものではなく、国家神道が呪術を温存する仕組みになっていたとする指摘が興味深い。本来であればマジカルな部分を近代的理性により説明して解消すべきところ、それができなかった(あえてしなかった?)明治国家とは何なのか。
先日文庫に入った大塚英志さんの『木島日記』(角川文庫)もそのあたりの事情に触れていそうで読みたくなってきた。
いったん神経衰弱が「輸入」され、それが病気として社会的に認められれば、ことあるごとに神経衰弱を利用して事態を自分の都合のいいように持っていこうとする輩が出現する。欠勤や辞職に必要な診断書に格好の診断名として重用されたという一例として漱石が引き合いに出される。
熊本の第五高等学校を辞めるため、呉秀三に頼んで神経衰弱の診断書を作ってくれと友人に頼んだ手紙には、「神経衰弱の珍断書」という誤字を繰り返しているという。診断書ならぬ「珍断書」とは。著者は「心理学的に面白い現象」と表現しているが、なるほどこの誤字からは仮病の臭いがぷんぷん立ち上ってくる。
もっとも漱石はれっきとした神経衰弱病患者であって、これはいまさらいうまでもないだろう。本書でも一章を割いて漱石の症例を検証している。
関口夏央・谷口ジロー『「坊っちゃん」の時代』を読んでも思ったけれど、なぜ漱石はこうも悩み抜くのだろう。漱石にいまヒット中のSMAP世界に一つだけの花」を聴かせれば泣いて喜ばれるのではあるまいか。
実は『書評のメルマガ』に書いている「読まずにホメる」の今月分として本書を取り上げ、数日前に送稿した(タイトルも同じ)。その直後どうしても読みたくなって読みはじめ、「読まずにホメる」配信より先に読了の感想をアップするということになった。
これまで「読まずにホメる」で取り上げた本は、それを書いたことで読んだ気になってしまい、恥ずかしながら一冊も読んでいなかったのだが、今回はなぜか書いたことが読む気をさらに増進させたらしい。読みはじめる前に書いた「読まずにホメる」と併読いただければ幸いである。