老成の師子相承

書いたもの(作品)、あるいはそこから漂う雰囲気、そこに表現されている作者の身ぶりから、実年齢以上の年齢を思わせてしまう、言い換えれば、読んだ物から想像するよりも実年齢はずっと若かった、そういう作家がいる。「老成」というべきか、「老人のふり」というべきか。
その代表選手は山口瞳さんだろう。その言行は世の中の非違に目を光らせる「頑固親爺」を彷彿とさせる。
以前読んだ『酔いどれ紀行』(新潮文庫、感想は2003/2/13条参照)が1981年、55歳のときの著作と知って驚いた。文章からはもう少し歳がいってからのものものと感じていたからだ。まわりにいる同年配の人びとの顔を思い出し、この人たちから『酔いどれ紀行』のような身の処し方が生まれるということが想像しがたかった。
その伝でいけば、山口さんが師と仰ぐ独文学者高橋義孝さんもその一人だ。このほど読み終えた『現代不作法読本』*1(文春文庫)が同じような雰囲気たっぷりで、実は45歳のときの著作というから驚く。
ちなみに本書は1958年刊行、文庫化が25年後1983年という遅咲きで、むしろ文庫化当時の年齢(70歳)が内容にマッチする。
本書は必ずしも世の不作法を咎めだてして筆誅を加えているというわけではない。元版あとがきによれば、

○普通に不作法だといわれているようなことを書き並べたのか
○いろいろな事柄を不作法な態度で筆に上せたのか
○こういうことは不作法だからおよしなさいといおうとしたのか
○私はこんな不作法なことを考えているということを書いてみた
以上四点が曖昧であるとおどけている。
ここからもわかるように本書での高橋さんの筆致は軽妙かつユニークで、年相応と言えるのかもしれない。
よくよく考えてみると、その高橋さんの師内田百間にも同様の雰囲気がありはしないか。そう思って講談社文芸文庫『百間随筆2』(池内紀編)の年譜(佐藤聖氏作成)を繰ったところ、『百鬼園随筆』が昭和8年(1933)44歳、『続百鬼園随筆』は45歳のとき刊行されたという。高橋さんが『現代不作法読本』を書いた年齢とほぼ同じという偶然に驚く。
ちなみに山口さんが45歳のときの作品は紀行『なんじゃもんじゃ』である(中野朗『変奇館の主人―山口瞳 評伝・書誌』所収「著作目録稿」参照)。