肝を冷やす思い

お言葉ですが…5 キライなことば勢揃い

高島俊男さんのお言葉ですが…5 キライなことば勢揃い』*1(文春文庫)を読み終えた。
すでに「旧読前読後」2002/12/27、2003/5/26各条に書いたように、基本的に私は高島俊男さんのこのシリーズは大好きで、対象の如何を問わず言葉づかいの誤用を指摘し舌鋒鋭くコテンパンにやっつける姿勢に、読みながらやんややんやの喝采をおくっている側に属する者であることは否定しない。けれども、いま上で「基本的に云々」などと限定を付けたのは、今回ばかりは肝を冷やすどころか、読んでいて居たたまれない思いになったからなのだった。
言葉づかいに対する異議申し立ての点では、「体調を崩す」という言い方に対する違和感(「ふれあい図書館」)には「たしかに言われてみるとそうだ」と感じ、また、男が「実家に帰る」という表現を使うのはおかしいのではという指摘(「「実家」の移動」)や、英語には「何番目」「何代目」にあたる言い回しがなく、翻訳に苦労するといった話(「何代目?」)にはなるほどと感心した。
とりわけ後者の話で紹介されている『斎藤和英大辞典』の編者斎藤秀三郎についての「ケタはずれ」の人物像は特筆に価する。「何代目」にあたる英語がないので、何代目かを訊ねる疑問形の文章を自ら「How manieth」と創案し、これを自ら編纂する辞書に発表するのである。
言葉の誤用に筆誅を加えるという点では、齋藤孝さんの『声に出して読みたい日本語』が槍玉にあげられていた。この本のなかに蝦蟇の油売りの口上が紹介されており、なかの「前足の指が四本」という部分に「しほん」でなく「よんほん」というふりがなが付けてあったことに対し、「あきれたね。よくそんな浅薄な知識で、あつかましく「声に出して読みたい」と題する本を出したものだ、とただちに投げ出してしまいました」と激烈な批判を加える(「交戰已ニ四歳」)。
私がもし齋藤さんの立場であったら死にたくなるほど落ち込むに違いないのだが、闘志盛んな人間であれば、恥をかかされたということで猛烈に憤慨し反論を試みるだろう。本書においてそのもっとも顕著な例の当事者(つまり高島さんに批判される側)だったのが、私の元同僚であったのには驚き、またその経緯を読んで居たたまれなくなったのである。
高島さんは元同僚の書いた文章の意味がわからず、挙げ句の果てに文末の肩書きを見て、「へえ、○○教授にもピンからキリまであるとはかねがね聞いていたが、まさかこれほどの□□がいるとは思わなかったなあ」とつぶやいた。元同僚は私と違って闘士だから手紙で反論し、それが〔あとからひとこと〕で紹介されている。
その手紙は「非常に高圧的」「あちこちにおどし文句やらイヤミやらをちらつかせた、書き手の品性のほどがはかり知られるような手紙」だったという。手紙は週刊文春で紹介してはならぬと書いてあったので、高島さんは要約して原文は引用していない。
それにしても、である。自分のことではないのに、穴があったら入りたい気持ちになった。高島さんの原文には元同僚の名前も職場名もきちんと出されているのだが、憚られて私には書けない。高島さんは、元同僚の文章がわからないというきっかけとなった問題については、もう一度書くつもりでいたのだが、「書こうとすると右の○○氏の手紙のことを思い出して胸糞がわるくなるので」書いていない。胸糞が悪いゆえか、巻末の索引にすら名前が採られていない。客観的に見ても、この「事件」は本書のなかでもっとも目立つのではあるまいか。
おまえはどっちに味方するのかって?
言っていることは高島さんが正しい。でもやはり言い方が歯に衣着せぬものだから、闘士の怒りを買うことになる。これまでは無条件で高島さん側についていたけれど、批判される側の気持ちを考え、ちょっぴり同情もしたくなったのである。