昨日は再読、今日は三読

ロートレック荘事件

いまこうして書いている文章が映し出されたパソコン・モニターから目を少し右に移すと、スライド書棚があり、その前に積ん読の山が一つだけある。右側の壁に並ぶ書棚と机の間の空間、完全に頭を右に向けなければならない場所に積ん読の山の本体が連なりうねっており、正面右手の積ん読の山はいわば富士山のごとき孤峰というわけである。
もっとも目に入りやすい位置にあるから、すぐにも読みたい本がそこに積まれてあるかといえば、そうではない。ランダムに重ねたあと、他の積ん読山脈も含めた幾たびかの整理を経た結果たまたまそこに積まれたものにすぎない。
この孤峯にはここ何年かで購入した筒井康隆さんの文庫本が含まれている。新潮文庫の朱色かかった赤い背と、文春文庫のそれよりは少し鮮やかな赤の背が目立つ。
モニターに向っていた目を何気なくそこに移したら、筒井康隆さんの本を読みたくなってきた。しかもそのなかに含まれていない作品をだ。その数日後職場近くの古本屋で偶然この文庫本を見つけたのでワゴンから抜き出したところ、平野甲賀さんのあの特徴あるカバーデザインが目に飛び込んで、やはり読もうという気になった。
その作品はロートレック荘事件』*1新潮文庫)。ミステリの分野は本業でない筒井さんが、ミステリ作家も真っ青のトリックを駆使した、世評高いミステリ作品である。
本書を読むのはたぶん三度目のこと。初読以来、たまにこの『ロートレック荘事件』を読みたくなる時期というものがあって、今回読みたい気分と古本屋での出会いという波長がうまく合致したので二度目の再読(つまり三読)が実現した。
過去の日記を検索してみると、初読のおりは、本好きの先輩が新刊で買ったものを貸してもらったことがわかった。読み終えたのは1990年10月30日。面白さに興奮しながら二時間で読み終えたとある。気力・集中力があったのだなあと懐かしい。それはともかく、同年9月の刊行だから刊行直後の読了と言ってよい。こんな感想を書いている。

犯人がわかった瞬間、今までぼんやりとは頭にありながらその実体をつかんでいなかったものが突然目の前に突き出された感じがしてアッと思った。(…)確かにこれは前人未到の言語トリックを駆使した傑作だ。そして二回楽しめる。
もっと感想を書いているのだが、内容に抵触するのでこれ以上の引用はひかえる。事前に先輩からは、アガサ・クリスティの『アクロイド殺し』のような作品と教わり、たしかにそうだとも書かれてある。
再読は自ら古本屋で求めた元版だったか、あるいは95年に文庫に入ったときであったか。筒井さんの単行本・文庫本は大半を売り払ってしまったため、手元にあるのはごくわずかにしか過ぎず確認できない。今回文庫本を読んでいたところ、妻が「またそれ読んでるの」と呆れた目で私を見たから、再読は結婚後のことなのだろう。妻に「面白いから」と強引に読ませたような記憶もある。だから妻も書名を憶えていたのだろう。
犯人もトリックも、作者が仕掛けた罠も、私にしては珍しく憶えていたにもかかわらず、三読してなお面白い。細心の注意を払って、やはり私には珍しく文章を何度も行きつ戻りつしながら熟読しても、いつのまにか作者の罠にはめられている、そんな印象だった。
ところどころに挿入されているロートレック作品の図版も目を楽しませる。ロートレックの絵やポスターの本物が屋内の至る所に掲げられていることから「ロートレック荘」と名づけられた別荘で起こる殺人事件。ただし書名に込められている意味はこれだけではない。映像化不可能というのはまさに本書のような作品を言うので、騙される快楽というものを感じないわけにはいかなかった。こんな騙される快楽に浸りたくて読む気が起こったのかもしれない。
佐野洋さんによる巻末解説を読んでいると、筒井さんが仕掛けた「言語トリック」のほかに、断筆宣言と底の深いところでつながる「自己規制」の問題が指摘されていてなるほどと思った。わたしたちが日頃目をそむけている(社会生活のなかでそむけるように無意識に教育させられている)問題を鋭くつきそれがトリックの核心となる。見事である。
今回買い求めた文庫版は平野甲賀さんの装幀もいいので、処分せずに手元に残し、また近い将来四読の気持ちがわいたら読んでみたいものである。