『蒲生邸事件』再読

蒲生邸事件

『蒲生邸事件』は、わたしが初めて読んだ記念すべき宮部みゆき作品である。2000年10月に文春文庫に入ったものを購い、約一ヶ月後の11月に読み終えている(→旧読前読後2000/11/4条)。その後妻がわたし以上の宮部ファンになり、自分が持っていた宮部さんの本は彼女にすべて移譲していた。
そのわたしが購った文春文庫版『蒲生邸事件』をむかし一度読んだことがある妻は、最近再読しようとしたらしい。ところが持ち歩いていた文庫本を何かの拍子に自転車のカゴに入れたまま、取り出すのを忘れてしまったという。ある日わたしが玄関で目にしたのは、無惨にも水を含んでふくれあがった文庫本だった。
やはり記念すべき本でもあったので、綺麗な姿を取り戻してもらいたいと思い、妻に『蒲生邸事件』の買い直しを課した。といっても新刊書店で見つけるのもばかげているので、彼女は古本屋やブックオフを訪れるたびに探していたらしい。数日前わたしは、『蒲生邸事件』とおぼしきぶ厚さの黄色い背表紙の本が、リビングに積み上げられている文庫本の一番下にあることを発見した。問うたところ、ちょうどブックオフで綺麗なものを見つけてきたので買ってきたばかりだという。幸い帯は雨にも無事だったので、帯だけもとの本のそれを付け直してくれていた。
ちょうど年末年始の休みで時間はある。これ幸いと『蒲生邸事件』を読むことにした。読みながら、記憶力がよくないわが身を喜んだ。面白いという印象だけ残っていながら、細部はまったく忘れている。確実に面白いとわかっている本を初読のように読めるのだから。はたして再読は期待どおりに初読とおなじような興奮を味わうことができた。
そのいっぽうで愕然としたこともある。時間旅行者である平田と主人公の孝史とのあいだで、時間旅行者が歴史を変えうるか否かという問題をめぐって激論を戦わせているくだり、人間が歴史の流れにとっていかに無力であるかを言い合っている。

「やめなよ。バカな考えだよ。歴史が自分で物事をああしようこうしようと決めてるわけないじゃないか。歴史は、人間がつくるものなんだから」(218頁、孝史の発言)
「たしかに、歴史を擬人化するのは間違ってるんだろう。あまりに安直だからね。だから、こう言おうか。歴史は人間が積み上げてゆくものだ。だから、積み上げたものが崩れるときにはどうやっても崩れるし、歪むところはどうつくろっても歪む。その流れは必然で、過去を知っている未来の人間がタイムトリップしていってあれこれ忠告したところで、根本的に変えることなど不可能だ、とね」(219頁、平田の発言)
このくだりを読んで、つい先だって出した拙著『記憶の歴史学*1のなかで、似たような文章を書いていたことに驚いたのである。「では「正しさを証明してくれる」という「歴史」とは何なのか。突きつめればそれは人間にほかならない」(5頁)などと書いたのであった。また終盤に近いところでの孝史と平田の会話のなかには、拙著の第四章で取りあげたようなことと通じる歴史への考え方が語られている。
言い訳めくが、前述のように『蒲生邸事件』は、10年前に読んだきり、今回(つまり上梓後)久しぶりに再読したのである。だとしたら、記憶力が悪いと思いつつも、このくだりが強い印象として頭のなかに残って、無意識に自分の文章として出てきてしまったものだろうか。
いや、それとも少し違うような気がする。『蒲生邸事件』は『蒲生邸事件』として、一個の長篇小説として、本好きの立場でたいへん面白く読んだ。いっぽうで歴史を研究する者として、この作品で語られている歴史と人間の関係について、考えさせられることがあった。それらはそのままわたしのなかに沈潜して血肉化されたのだろう。
その後わたしなりに研究の過程でさまざまな史料を読んで、史料と歴史の関係、歴史と人間の関係を考えるようになった。そのうえで、本に書いたような文章が頭に浮かんできた。“宮部史観”がいったん自分のなかで吸収され、そこに自分自身の経験が加味されたうえで、言葉として再構成されたと考えたい。まるで無意識に剽窃してしまったのではないかと、一瞬背筋が凍る思いがしたけれど、自分自身の『蒲生邸事件』との関わりをふりかえるかぎり、その文章や内容を憶えていたとは考えられない。
小説を読むことは自分の仕事とはまったく関係がない、あくまで趣味としてのいとなみなのだと、趣味としての読書と仕事とのあいだに線を引き、区別して考えていたけれども、今回のような体験を思えば、趣味だの仕事だのといったレベルとはまったく別次元で、本を読むことが一人の人間の考え方(生き方)をつくっていくものだと、あらためて実感したのである。